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March 24, 2008

明治維新を早めたスコットランド人

幕末から明治の歴史を少しでもかじった日本人であれば、トーマス・グラバーという人物の名前くらいは知っていると思います。また長崎のグラバー邸の名前がこの人物に由来することも知っていると期待されます。

しかし、私自身の知識の程度には心許ないものがありました。幕末に薩長土肥の倒幕派の各藩に資金援助・兵器の供給といった支援を惜しまず行い、明治維新を早めた人物として知られてはいますが、さてこの人物がどのようにして日本に来ることになったのか、実際に果たした役割はどのようなものであったのか、明治維新以降はどのような生涯を送ったのか、その子孫は何をしているのか、「蝶々夫人」のモデルになった経緯はどのようなものであったのか、といったことについて私自身これまでその全体像を知る由もないままに今日に至っています。

ところで日英外交関係締結150周年に当たる本年(2008年)、わが勤務先のロンドン事務所でも日本の地方都市と縁のある英国人の軌跡に焦点を当てつつ、今日的な視点でその業績を紐解き今後の日英の地方都市同士の繋がりの在り方を探るセミナーを開催することになり、その一人としてトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)を取り上げてみることとしました。225pxthomas_blake_glover

そのようなこともあり、長崎造船所の関係でグラバーと縁の深いとされる三菱重工業のロンドン事務所を訪問し、責任者の方にこのセミナーへのご協力をお願いしたところ、大変好意的に趣旨をご理解いただき、話はよい方向に進みましたが、その際に、アレキサンダー・マッケイ(Alexander McKay)というグラバー同様スコットランド出身の作家が書いた、「トーマス・グラバー伝」(原題;SCOTTISH SAMURAI :Thomas Blake Glover)という本の紹介を受けました。

イースター休暇の時間を利用してこの本を一挙に読了しましたが、これまでの疑問が一挙に氷解する思いがしただけではなく、たまたま現在英国に在住し、グラバーの出身地のアバディーンをはじめとするスコットランドも度々訪問している私にとっては、英国やスコットランドと日本の関係をより歴史的、複眼的に眺める良い機会ともなりました。以下そのさわりを紹介します。

150年前の欧米列強との外交関係締結の翌年の1859年開港時の長崎に、スコットランドに縁の深いジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)商会(会社のマークがスコットランドの国の花とも言うべきアザミを現したものになっている)が送り込んだグラバーは20歳そこそこの若者であり、船舶などの取引と倒幕運動を通じ薩長をはじめとする倒幕派の各藩の同世代の若き群像たちと肝胆相照らす仲となり、そのことが契機となり新生日本の国造りに側面から強力に参加することになりました。

未収になる可能性の高い討幕派各藩の借金による船舶・武器の供与、各藩への金銭的支援、勤皇の志士の庇護、渡航禁止令の実施されていた当時の長州、薩摩の若手藩士の海外留学の斡旋(要するに「密航」の斡旋)、母国に対する倒幕派擁護の世論形成などを、リスクを乗り越えて行っています。(実際に各藩からの未収金がグラバー商会の資金繰りを危うくし、同商会は1870年には倒産の憂き目に遭っています。)

因みに、1863年に長州から5人の中には伊藤博文、井上馨、山尾庸三などの明治期の日本のリーダーが含まれており、この密航留学は、その後の日本の進路に重要な役割を果たしたと考えられています。伊藤や井上は、翌年の4月には、下関で長州藩が外国船に砲撃を加えたとの報に接し、藩の重臣に西洋列強の国力のありようを伝えるべく日本に帰国しています。

その後、グラバーは、持ち前の進取の気性を見事に発現し、現在の長崎造船所の基盤となった小菅の「そろばんドック」の建設、高島炭鉱の近代化、日清・日露戦争における艦船の供給、キリンビールの設立などを通じ、近代日本の産業基盤の形成に少なからぬ役割を果たしています。

これらの産業資産は、明治政府を通じ三菱グループに引き継がれ、グラバー自身も三菱グループの顧問として、同グループの発展に寄与しました。

英国への密航を手助けした伊藤や井上を始めとし、明治政府にはグラバーに足を向けることのできない顕官が多数おり、幕末にグラバーが取ったリスクは、明治期の日本の発展にあたって結果として大きな成果となって実現しました。

私生活では日本人の妻をめとり、また、女性関係でも数々の浮名を流したグラバーにまつわる逸話はいつしか「蝶々夫人」というオペラにまで発展しています。しかし、グラバーの子孫は必ずしも幸せになったとは言えない経緯もあります。ご子息の富三郎という方は、家族を亡くし孤独の中で、長崎への原爆投下後わずかの日をおいて長崎のグラバー邸の近くの自宅で自殺しています。

米国の原子爆弾が標的としたのは紛れもなくグラバーがその発展に尽力した長崎造船所であることが、富三郎氏の自殺とかかわりがあるのかどうかは、知る由もありませんが、この本を読んでいて思うのは、仮にグラバーという人が長崎に来なければ、少なくとも日本の明治維新は相当遅れたのではないかということです。西欧事情を直接まともに実見する機会がないまま明治期の指導者が国づくりを進めていったとしたら、日本のその後はどうなっていたのでしょうか。そのように思いをめぐらさせる程の足跡を残したのです。

グラバーを長崎に送り込んだジャーディン・マセソン商会自体は、何を隠そう、アヘンを中国に売り込み当時大儲けをした企業であり、それに抵抗した中国に対し英国政府をけしかけアヘン戦争を誘導した多国籍企業でもあったのです。そうした企業により長崎に送り込まれたグラバーではありましたが、グラバー自身の矜持により、独自の立場で新生日本の支援を行ったのです。

他方で、大きな歴史の流れの中で、日本は日清・日露の戦争を経て太平洋戦争に突入し、結果としてグラバーに縁のある長崎が、グラバー縁の軍需産業施設を保持していたばかりに原爆という人類最大の悲劇に遭遇する運命となったことには歴史に皮肉を感じざるを得ません。

しかし、その長崎はまた、原爆の惨禍を乗り越え大きく復興しています。グラバーの縁もあり長崎市はアバディーン市と、「姉妹都市」とは異なりますが「市民友好都市」の交流を行っているようです。グラバーの故郷アバディーンで建造された船舶が、当時長崎の港を賑わしたことを、今では覚えている人は少ないのかもしれません。現在の両市の交流の程度はよく分かりませんが、お互いに「古きを訪ね新しきを知る」、ということはありうるものと考えられます。

さて、わが事務所主催のセミナーには、長崎からグラバー研究家のブライアン・バーフガフニ長崎総合科学大学教授にもお越し頂くことを予定しております。教授は、「花と霜」という本により、グラバーの紹介をしておられます。私は教授とはまだお会いしたことはありませんが、1950年カナダ生まれ、72年来日。京都妙心寺で雲水として9年間修行の後、長崎市嘱託職員を経て長崎総合科学大学教授というユニークな経歴の方のようです。カナダ人の学者が、スコットランド人の長崎での足跡を調べて日本語の本にし、それを日本の機関のセミナーの機会に、スコットランドで話をする、という試みも、なかなか国際的で面白いように思われます。6月に予定しているセミナーに関し、グラバーさんもあの世から喜んでくれることを心から期待しています。

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Comments

I have happened to come across this article and found it very interesting! Thank you.

Posted by: Nobuyoshi Suzuki | March 24, 2008 at 01:17 PM

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