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June 17, 2007

コミュニティ振興で「秀吉以来400年来の地区の泣き別れ」の解消を!

6月の第3週は、上伊那郡辰野町に二回行く機会がありました。一度は、長野市に用事があった際に、知人の招きで辰野町小野地区の皆様の集まりに呼ばれたこと。二度目は、大阪の帰りに、中央西線経由で、辰野のホタル祭りを見物して帰ったこと、でした。

辰野町小野地区に、高校同窓の小野能正氏がおられ、地元で造り酒屋を経営されています。私が最近コミュニティ振興に取り組んでいることから、地元の町内会の集まりで少し話をして欲しいというリクエストに応じました。これに加えて、「夜明け前」という評判の吟醸酒に誘われたことも事実でした。070616_18020001

小野の町内会の皆様の話を聞いていて、もともと一つの小野地区が、塩尻市と辰野町に泣き別れになっていることを知りました。町議会議員の宇治徳庚さんは、二つの行政区域に分割された「両小野振興会」の会長もされています。

何故そのようなことになったのですか、と伺うと、豊臣秀吉の時代に遡る経緯があることが分かりました。この経緯は、小野能正氏が、わざわざ辰野町誌歴史編を調べて知らせてくれました。以下それを記します。

・天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、同年7月13日、秀吉は北条氏の違領をそのまま徳川家康に与え、家康配下は関東に移ることになり、これによって飯田城主菅沼定利は上野吉井2万石、高遠城主保科正直はその子正光が下総多古1万石の大名として移封し、その後も家康によって信濃から関東へ呼ばれた諸将も少なくなかった。(この前段には武田氏の侵略と支配、そしてその滅亡があった)
・家康支配下の諸将の去った信濃へは、豊臣支配下の諸将が配置された。秀吉は、家康を関東へ移した後の信濃の経営にあたり、まず木曽郡を蔵入地とし、佐久郡に仙石秀康、安曇・筑摩両郡に石川康正、諏訪郡に日根野高吉、伊那郡に毛利秀頼を配した。毛利秀頼は天正18年7月、伊那郡7万石を与えられて飯田城主となり、高遠には城代を置いた。
・秀吉が行なった信濃の知行割の中で、松本の石川康正と飯田の毛利秀頼との間に所領争いが起こった。そこに小野が登場する。当時、伊那郡小野郷は、東西は諏訪と木曽、南北は松本と伊那を結ぶ交通の要衝として非常に重要な地だった。石川氏と毛利氏はこの小野郷の帰属をめぐって争い、秀吉の裁定で小野は南北に分割され、北方を松本領とすることで両者の争いは落着した。
・このことは、古文書に次のとおりに記されている。「天正19年11月23日、石川康正の家臣安部子源左衛門らから毛利秀頼の家臣可知平六左衛門に北方三五貫文の地の跡書が南方に渡された。」
・小野は、古来南北に、また東西にも交通の開けた盆地で、信濃二の宮と崇められてきた小野南北大明神を中心に、憑(たのめ)の里とよばれた自然集落で、伊那郡に属していたが、この裁定により南北二つの小野に分割され、その境界がそのまま筑摩と伊那との郡境となり、この人為的な境界が後世に引き継がれ今日に至っている。
・小野郷の南北分割の経緯などについては史料が少なく明確ではないが、天正18年7月、小田原落城後、秀吉から石川康正は小笠原郡(安曇・筑摩)、毛利秀頼は伊那を与えられたが、両者は所領の事で争い、それが小野郷の南北分割により落着した、と伝えられている。(その後いくばくもなく二人は朝鮮出兵で出陣し、病を得て帰陣、文禄2年(1593年)には二人ともこの世を去っている由)
 
さて、小野郷の分割で一番迷惑を被ったのはもとより小野の住民で、その後遺症は400年以上も経過した今日も続いているのだそうです。

しかし、両小野の住民の皆さんは少しずつこの垣根を取り払う努力を始めつつあるのだそうです。昭和28年、小中学校が辰野町と塩尻市の組合立の学校「両小野」小学校、中学校となり、ようやく辰野町小野区、塩尻市北小野区の役員がほとんど共に机を並べたことのある人達になったのだそうです。

小野能正氏によると、「その後50年以上を経て、対立している状況じゃない、両小野の双方で小野の里を盛り上げていかなければならない・・・ようやくそんな機運を感じられるようになって来た」のだそうです。しかし、「行政の垣根は高く、住民意識も何か凹んでいるところがあり、このような中で、子供はどんどん少なくなり、今のままでは学校も病院も存続が危うくなっている」、との危機感もお持ちです。

そこで、両小野のコミュニティの強化の議論になってくるのです。住民の皆で議論をしながら、小野の地域再生を果たしたい、そんな気運が皆さんの間に芽生えているのだそうです。政府のコミュニティ振興策も、小野の皆さんには元気の出る展開のように受け止められているようです。

ところで、小野は昔の宿場町の歴史的遺産が保存されています。小野宿は一見の価値がありそうです。

小野能正氏のご親戚の小澤和延さんという方が、小野の歴史を研究されておられ、小野宿の「問屋」(辰野町に寄付された本棟造りの建物)の管理もなさっておられるようです。Phystory3

この「問屋」は小野能正氏とも深い関係があり、五代前の先祖がこの問屋より養子に来て造酒屋を始めた(1864年)のだそうです。地域の歴史が、自分の家系の歴史にほぼ一致している小野能正氏が、両小野地区の再生に一生懸命になる気持ちはよく分かるような気がします。

地域の歴史を紐解き、地区の人がその知識を共有し、400年来の悲願を何らかの形で実現するチャンスは十分にあると思えます。私も及ばずながら側面支援をしていきたく思えてきました。歴史認識が地区の人の一体感を醸成し、求心力を持つことで、小野地区がどうなって行くのか、コミュニティ振興のケーススタディとしても興味が尽きません。

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