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March 18, 2007

戦国末期の山城、「埴原城」探訪

3月17日、松本市の中山地区にある中世の山城の遺構である埴原(ハイバラ)城を探索しました。信州大学教授でこの分野の研究の第一人者である笹本正治氏の先導で、小宮山淳信州大学学長、松本市立考古博物館の竹内靖長主査、直井雅尚主査、それに笹本先生の教室の学生の皆様とご一緒しました。

東京からは、ともにある勉強会でご一緒している同僚と二人で参加しました。

急峻な山城の遺構なので、登山靴を履きリュックを背負ってた出で立ちで、標高785mの麓の蓮華寺に車を止め、標高1000mの山城の本丸跡地まで片道約1時間半の山登りでした。笹本教授の関係者が実際に「縄張り」を行い作った山城の鳥瞰的な見取り図を頼りの探索になりました。Photo

山の尾根伝いに「くるわ」と呼ばれる土塁の陣地が幾重にもあり、攻めてくる敵を「くるわ」の上から迎撃する仕掛けが施されています。狭い道は「くるわ」を巡る形になっており、「くるわ」からは丸見えで迎撃されやすい形になっています。Rimg0108

「くるわ」と「くるわ」の間は「切岸」と呼ばれる土で作った段差がきつく、敵が攻め上がるのが非常に難しくなっているつくりです。

尾根伝いには尾根筋と垂直に「堀切」が切られ、尾根に人工的なアップダウンをつけています。

本丸の手前には「水場」の跡があり、岩で囲われた穴からは水が浸みだしていました。Rimg0112

本丸には石垣が築かれていました。松本城にある「穴太積」(アノウヅミ)と呼ばれる技術が導入される前の土着の石積みで、簡単な石積みでした。大きな岩が「岩座」(イワクラ)として本丸に残っていました。この岩座は、神の加護を意識した当時の考え方を伝えているのだそうです。Rimg0115

埴原城は、しかし、単に登るだけでは、やけにアップダウンのある山だなあと思う程度です。笹本教授の話を聞きながら登ったので、遺構の意味がよく分かるのです。

笹本教授の話では、「地形と自然と歴史を知らないと歴史的遺構の持つ意味は分からない」のだそうです。例えば、地滑り地域を「切岸」と見間違うこともあり得ないわけではないのだそうです。ちょうどCTスキャンでの診断の仕方が名医と平凡な医師では異なってくるようなものかなあと、小宮山学長と話しました。2007_0317_104303aa

笹本教授の説では、埴原城は、武田氏が滅亡し、豊臣政権が天下統一を果たすまでの間、天正10年(1582年)から18年(1590年)までの間に、小笠原氏によって築城されたのではないかとの見立てです。

戦国の再末期、信州の中信地域は、徳川氏をバックにした小笠原氏、上杉氏、豊臣氏をバックにした木曽氏、そして(後)北条氏の4大勢力がこの地の覇権を競い、守護の小笠原氏は、権力の空白という異常な事態を前に、いざというときに備えた最後の砦をこの山城に築いたのではないかというのが笹本説でした。喩えれば、現在のイラクの状況のような雰囲気の中で、兎も角も立て籠もりに絶対安全な山城を求めたという説です。

難攻不落の山城ですが、実際に闘いの場となることは無かったのではないかとの説が笹本説です。松本市の教育委員会では、「乾の砦」が天文19年(1550年)武田の手に落ちた史事の「乾の砦」がこの山城ではないかとの説に基づき、説明の立て看板にはその旨が書かれていますが、笹本教授は間違いだと断言しています。小笠原長時が当時この様な要害を築城できたのであれば、容易に落ちることはなかったはずだ、と。Rimg0109

ともかく、資料がないので、想像を逞しくして、歴史を辿ることはロマンをかき立てるようです。笹本教授の教え子の信州大学の学生は、「笹本先生は山城に来ると生き生きとしてくるね」と笑いながら身軽に山を駆けめぐっていました。先生の教え宜しく、山道を単に辿るのではなく、どうやったら「岸切」を抜けられるのか、ということを考えるためにも、道無き道を縦横に巡っていました。その仕草がまるで忍者のようで、若者のエネルギーに感服しました。

本丸跡で、岩座に腰をかけ、おにぎりを食べましたが、とても美味しい昼食でした。記念写真も晴れやかなものでした。

ところで、、現在の松本城は、石川数正が、小笠原氏、武田信玄、再度小笠原氏を経て松本城主となった際に城の大改築に着手したものが引き継がれていますが、城の歴史からいうと、松本城の前の城の形態が埴原城などの一連の山城なのだそうです。

松本というと松本城しか思い浮かばないのが普通の人ですが、それ以前の中世の山城にこそ、生きるか死ぬかという戦国時代のギリギリの戦乱の歴史が染みこんでいるというのが、笹本先生の主張です。これをもっと掘り起こせば、松本の歴史はより奥深いものとなるはずだ、と。今回はそのことを私たちにも理解させようという趣旨に基づく最高級ナビゲーター付きの探訪だったのです。

松本地域の山城には、埴原城の他に林城、桐原城、山家(ヤマベ)城などがあるとのことです。その中で保存状態がよいのが埴原城なのだそうです。

しかし、今回埴原城跡に行って、歴史的山道が削り取られているのがやけに目につきました。山頂に行くと、その理由が分かりました。山頂から間伐した木材を山道を使って降ろしているのですが、木を降ろしやすくするために、カーブをカットしていたようなのです。笹本教授はこのことに何度も懸念を表明し、松本市の担当者に、そのことを伝えていました。

林城も探訪しましたが、本丸まで車道を作ったために、「堀切」、「切岸」などが埋められたり、途中で切られたりして、史跡の価値がだいぶ減じられてしまったとの笹本先生の話でした。それでも、林城から見る松本及び北アルプスの風景は絶景です。この地域を睥睨する気分になれます。Rimg0119
この山を、小笠原氏の主城と定めた気持ちが伝わってきます。

ところで、山城がある中山の地は、午伏寺断層で有名なところです。午伏寺断層は糸魚川静岡構造線を代表する断層として、著名です。天平時代に大地震があって以来、大地震がないので、直下型地震の発生確率が日本で最も高いとされているところです。

皮肉なことに、この地域に、中世の城の遺構があるのですが、この中山には、古墳時代の貴重な遺跡も沢山あるのだそうです。山から戻って竹内さんと直井さんの勤務先である松本市の考古博物館に立ち寄りましたが、第一級の出土品がよく整理されて並んでいました。ここでも笹本教授の蘊蓄を伺えました。

弘法山古墳の全景も初めてみることが出来ました。「前方後方墳」という前も後ろも四角の形なのだそうで、「前方後円墳」の前の時代の古墳なのだそうです。弘法山の近くに前の松本市長の有賀正さんがお住まいですが、私の知り合いがこの有賀さんのことを、「弘法山」と地名で呼んでいたことを思い出し、この古墳のことかとやっと分かった次第です。このことを小宮山学長にも申し上げると、初耳だと笑っておられました。

さて、この中世の山城に関する研究の蓄積はまだまだ不足しています。学問の世界の貢献が求められているのはもとよりですが、行政の側も注視すべき対象であることは当然のように思えました。地域の誇りを再発掘するためにも、前向きの対応が求められます。

市の文化財課の竹内、直井ご両人も、笹本教授の高級解説付き探訪は大いに刺激になったようでした。文化財課の仕事の多くは、市内の再開発に伴う受動的な遺跡調査で、遺跡調査費用を安くするようにとの開発事業者からの要請を受けて日々の仕事に四苦八苦しているのが現状だ、という実態も伺いましたが、行革・人員削減の嵐の中でも、何とか工夫をしながら地域の歴史文化に目を向ける取り組みをしっかりやって欲しいと再認識しました。

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Comments

埴原城はかつて探訪し、本丸の北下にある大空堀には驚きました。さて笹本説に多少疑問を持ったものでコメントします。
 笹本説では埴原城は天正10年から18年の間に築城したのではという考えらしいですが、武田氏が滅びてからでは小笠原氏への直接的敵の脅威は薄れていたはずです。この時期に改めて築城する合理性がありません。縄張りを見ますと、中世中期の技法であり、やはり対武田を意識された山城と考えるのが自然と思います。

Posted by: 横尾 | April 17, 2008 at 09:31 AM

笹本教授は、史跡を観光目的にやたらに開発してしまうことを懸念されています。松本の林城は、善意の道路開削が林城の史跡的価値を台無しにしたと残念がっておられます。荒砥城の復元は、どの程度の専門家の支援を受けたのか少し不安ですね。

Posted by: むーさん | March 21, 2007 at 09:35 PM

最高級のナビゲーター付きで、羨ましい山城探訪です。
平城と異なって、自然の中にひっそりと石垣などが残っている様は、むしろ想像力やロマンをかきたててくれます。

私が見て歩くようになったのは、千曲市は旧上山田町(温泉街近く)にある荒砥城がきっかけで、戦国期に地方豪族の山田氏が築いたものだそうです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Arato/

竹下内閣のふるさと創生事業の一環とも聞いていますが、曲輪や柵や兵舎などが復元されていて視覚的にも、感覚的にも「山城」をイメージさせてくれます。NHK大河ドラマ風林火山のロケもおこなわれましたが、ご覧になっていなければ一度はお勧めしたい山城です。

山城は沢山ありますが、いずれも「かなりの山頂にある」「訪れる人は限られる」「観光効果に薄い」などから整備はままならないのが現実のようです。
が、地域のアイデンティティーにも繋がる大切な歴史資産です。標識や登坂道など、地域の協力も得た行政投資が必要だと思います。

ちなみに、私の好きな山城は①小谷城②備中松山城(天守が残る)-です。

Posted by: shishizanoushi | March 21, 2007 at 12:44 PM

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