ワシントン・コンセンサス
日本でも格差社会が広がりつつあることが問題視されていますが、その背景の一つとして、経済の「グローバリズム」があると言われて久しくなっています。
一体、この「グローバリズム」とは何か、その答えの一つが、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ氏の「世界を不幸にしたグローバリズムの正体(Globarization and its discontents)」(徳間書房)に赤裸々に描かれています。
「情報の経済学」の第一人者のジョセフ・スティグリッツ氏は、世界銀行のチーフエコノミストとして途上国や旧社会主義国の経済問題に対する積極的な提言を行ってきた経歴があります。しかしこの本を読む限りにおいて、氏の理念や提言は、世銀やIMFによるそれらの国々への政策的介入に生かされたとは言えず、そのことに対する憤りもあったためか、この本は非常に激しいタッチでIMF批判を行っています。
90年代の世界各国で見られた経済危機の顛末を取りあげ、IMFが途上国に対して行った政策的介入は、如何なる対応をし、その結果が当事国にどの様な結果をもたらしたかを描き、IMFを断罪しています。
IMFが如何に市場原理主義を改革のプロセスを無視し途上国に対し直裁に押しつけようとし、それが破滅的な結果をもたらしたかを論証しています。しかも、この一見脱イデオロギー的で市場経済の普遍性を主張するIMFの見解が、実はアメリカ国内の政治経済的な利害関係を色濃く反映したものであり、理論的な正当性をまったく持っていないと厳しく批判しています。
市場経済を軌道に乗せるにはそれを支える制度の存在が不可欠なこと、途上国や旧社会主義諸国の経済改革にはプロセスが決定的に重要であること、経済効率性の追求とともに所得再配分、貧困、失業問題の克服といった社会的公正の実現が極めて重要なこと、それらの目標を達成するために政府が適切な役割を果たすべきことを述べています。我々の感覚からするとごく当然な指摘なのですが、IMFという国際経済機関はそのことを十分に理解しなかったと断じています。
「グローバリズム」の背後に存在する重要なキーワードとして、「ワシントン・コンセンサス」という言葉があるようです。IMFの生みの親のケインズは「市場は万能ではなく、政府の適切な介入が必要である」という方向を打ち出し、そのためにこそ国際機関のIMFが創設されたにも拘わらず、この方向性は、1980年代に自由市場主義にとって代わられたとのことですが、その背後にあったのが、経済の開発と安定にそれまでとは根本的に異なるアプローチをとろうとする「ワシントン・コンセンサス」というものであったと書かれています。
「ワシントン・コンセンサス」とは、IMF、世界銀行、アメリカ財務省の間で確認された、開発途上国に対する「正しい」政策に関する合意、とも言うべきものなのだそうです。このコンセンサスに組み込まれた考え方の多くは、ラテンアメリカの諸問題を考えるうちに発展したもので、政府が予算をしっかりと管理せず、ずさんな金融政策のせいで手に負えないインフレが発生し、第二次大戦後の10数年にラテンアメリカの一部の国で見られた爆発的な経済成長は持続せず、そしてその原因は政府が経済に介入しすぎたのが原因だ、とする考え方なのだそうです。そして、この考え方を世界中の国に適用できるはずだ、と考え、資本市場の自由化を推し進めることになった、と書かれています。
スティグリッツ氏は、資本市場の自由化を迫るIMFの政策が、関係国に如何なる結果をもたらしたかを以下のように分かりやすく論証しています。
1 IMFは最初、アジアの国々に対して市場を投機的な短期資本に開放するようにと迫った。
2 各国がそれに従うと、大量の資金がいきなり流入してきたかと思うと、また急いで出ていった。
3 するとIMFは、金利を上げて緊縮財政を実施しろと言った。
4 その結果、深刻な景気後退が起こった。
5 (その結果)資産価値が急落すると、IMFは損害を被った国々に、特売価格にしてでも資産を売却せよと進言した。
6 更に、会社にはしっかりとした外国の経営陣が必要であり、そのためには外国人に経営を任せるだけでは不十分で、外国人に会社を売らなければならない、と言った。
7 その売却業務を行った外国の金融機関は、かつて資本を引き揚げて危機を加速させた当の金融機関と同じだった。
8 これらの銀行は、経営難に陥った会社の売却や分割で多額の手数料を手にした。ちょうど最初にこれらの国々への資金導入で多額の手数料を手にしたように。
スティグリッツ氏は、IMFの一連の政策の背景には、欧米の金融界の利害とイデオロギーが反映されているとはっきりと指摘しています。IMFの幹部の多くは金融界出身であり、その多くはIMFでその利益のために十分に働いた後、金融界で給料のいい仕事に就いていることを指摘しています。IMFの副専務理事として途上国への資本市場自由化を迫ったスタンリー・フィッシャーは、シティーバンクを傘下に持つ巨大金融会社シティー・コープグループの副会長になり、そのシティー・グループの経営執行委員会会長はロバート・ルービンで、アメリカ財務省の長官としてIMFの政策決定に中心的な役割を果たしたことを例示しています。
IMFが主導したロシア経済の急速な民営化路線の結果、旧ソ連の国家財産が、エリツィンの少数の友人や同僚を億万長者にさせた国家資産略奪をもたらしたとまで書いています。ロシアでは貧富の差が極端に拡大し、中産階級の生活水準は著しく低下し、「ロシアをはじめとする旧ソ連邦諸国の有能な学生は、欧米に移住したいという夢を抱いてひたむきに働いている」という惨めな結果をもたらしたと指摘しています。
歴史的に、法律と民主主義に基づく社会を創造する際に、中心となるのは中産階級であるのにも拘わらず、このような有能な学生の移住願望に象徴されるように、ロシアの現状はロシアの将来にも深刻な影響を与えずにはいないと、体制変革時のIMFの致命的な誤りを断じています。
IMFは、トリックル・ダウン経済学(成長の恩恵が貧困層までしたたり落ちる)を信じ、途上国で市場原理主義を押し進めたものの、十分な競争と規制構造がない中では、結果として雇用破壊をもたらしたと分析しています。
しかしながら一方で、スティグリッツ教授は、グローバリゼーション自体は、「民主主義と大きな社会正義を求めて戦う活気あるグローバルな市民社会をもたらすと同時に、世界の健康状態の改善をもたらした」とも言っています。問題は、グローバリゼーションにあるのではなく、「それをどう進めるか」にあると指摘しています。
「経済と社会についての特定の観念によって作られた偏狭な思考パターン」による対処こそ諫められるべきと、IMFとアメリカ財務省のこれまでの路線を批判しつつ、「当事国を運転席に座らせる」というプロセスの転換も必要だと言っています。
それでは、世界を幸せにするグローバリズムとは何か、について、幾つかの提案が行われています。政府の役割の在り方、IMFなどの国際経済機関のガバナンスの在り方、そしてその機関の意思決定の透明性の向上などを論じつつ、具体的改革事項も提案しています。その中には、短期融資を助長することがグローバルな不安定性を高めること、金融部門の規制緩和と自己資本基準への過度な依存は見当違いであり不安定化の要因であること、セイフティーネットを改善し、国内の弱者がリスクに対処する能力を高めることについても言及しています。
そして、「ペース」の問題も取りあげ、「ゆっくりとしたプロセスをとれば、伝統的な制度や規範は圧倒されることなく、新たな難題に適応し、対応することが出きるはずだ」、と指摘しています。
この本は、主として途上国や旧共産国へのIMFやアメリカ財務省の対応を批判的に解説していますが、資本市場の開放を迫られた日本としても他人事とは思えない指摘が随所にあります。今日の日本の経済社会の現状も、このグローバリズムの影響をまともに受けていることは明らかですから。
資本市場開放による米国資本の日本進出、外資による日本の企業買収により、横文字企業がやたらに目立つ昨今です。国会議事堂を皇居側から見ると、議事堂を見下ろすように「プルーデンシャル」という文字の入ったビルがそびえているのが分かります。今後放出が予定される一等地に所在する政府保有の土地もその多くが外資に買収されることになるのかも知れません。気が付いてみると私自身が加入している生命保険の幾つかもいつの間にか、女房の手により外資系に切り替えられています。
これが消費者の利益になるのであれば、文句はありませんが、日本の企業が欧米で金融商品を販売するノウハウがないままに、一方的に外資に日本市場を蚕食されているとしたら、相互主義の観点からは日本国民として少し残念でもあります。
我が国にとって特に問題は、スティグリッツ氏も指摘しているように、短期融資の助長、金融部門の規制緩和、自己資本基準への過度な依存、セイフティーネットの張り替えの遅れ、そして、改革の「ペース」の問題などがあるように思われます。
政府系金融機関が廃止統合され、民間銀行に機能代替されていますが、長期安定資金のルートを余りに細めることが正しいことなのかどうか、金融の規制緩和で消費者金融に大手の銀行がだいぶ貸し込んでいる実態などをどう考えるのか、自己資本比率の重視で中小企業への貸し渋りが継続していないか、企業が収益重視になり過ぎ雇用を流動化させ非正規雇用を急速に増やしている事態をどう考えるか、それに対して政府の雇用施策など必要なセイフティーネットの張り替えが遅れているのではないか、個人間だけでなく地域間格差が拡大している中で、地方財政制度のセイフティーネットを急速に細らせようとする動きが見られることは如何なものか、などの心配がすぐに頭を過ぎります。
少なくとも、我が国においては、「ワシントン・コンセンサス」ではなく、「国民統合のコンセンサス」の元に、国の活力を健全な形で増進させる改革を、民主的なプロセスを経て進めていってもらいたいものだと、この本を読んでつくづく感じます。
現在、マスコミの紙面では、毎日のように「政府の失敗」を指摘する記事を見ない日はありませんが、同じように、あるいは、もっとひどい形で「市場の失敗」の事例もあります。マスコミなどによる指摘は、健全な民主主義の前提である情報流通が日本では機能している証拠だと考えたいところですが、集中豪雨的な報道により、ともすると全体を鳥瞰した冷静な議論が出来ずに、ありうべき制度改革の方向性を却って歪めてしまうことの無いことを祈りたいと思います。
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