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October 07, 2006

誤解され易い「義務教育」の義務の主体

新聞に載る「声」の欄を眺めていると、目の覚める意見に出くわすことがまああります。「教育再生会議」発足の動きが報じられ、これに対する国民の関心も高まっており、今後更に教育論に拍車がかかるものと思われます。

そのような中で、10月7日の朝日新聞朝刊に載った、さいたま市の68歳の岩井三弥子さんの、誤解を生む「義務教育」という名称を「基礎教育」に変更すべしとの意見は、なかなかのものだと感じ入りました。

岩井さんの意見は次のとおりです。
・小中学校の教育を「義務教育」と命名したために、多くの子供が「学校へ行くのは自分の義務」だと誤解している。
・本来は、「義務教育」は、「国民がその保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」のであり、子供は、「権利」を持っている。
・この意味を子供にしっかり伝えるためには、「義務教育」という紛らわしい呼称をやめ、「基礎教育」、「初等教育」などへの名称変更を提案したい。
・名称変更により、「義務教育」なのだから給食費・教科書などすべての費用を国が負担すべしとの誤った思い込みも減るし、学習意欲を失っている子供や教育に関心の低い親が何かを考える切っ掛けになりうる。

確かに、日本国憲法26条は、第1項で、
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
とし、義務教育にとどまらず広く教育の機会付与の権利に関し規定しています。その上で、第2項では、
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ
とし、「義務教育」は「保護者」の「義務」としての「普通教育」、つまり中間省略の形で引き続く条文において、
義務教育は、これを無償とする
と規定しています。

親の義務である普通教育を実質的に機会保障するために、義務教育の無償性を規定しているのであり、義務教育そのものは、国にとっての義務ではありません。国にとっての義務は、「国民が能力に応じて等しく教育を受ける」憲法上の権利を保障するという、より広範な義務があるということです。もちろん、義務教育は無償とする、と規定されていることから、この無償性を担保する責務が国にあることは明らかですが、基本は、岩井さんのおっしゃるように、親の義務であることをしっかりと確認することからスタートすべきです。(なお、無償の範囲が、学校教育という現物給付そのものなのか、教科書も入るのか、給食費も入るのか、入学準備金も入るのか、或いは、無償性を保障するのが義務教育費国庫負担であるというのであれば、私立の小中学校も義務教育だが私立が行う義務教育に国庫負担がないのはおかしいではないか・・・などの点に関して議論のある点はご承知の通り。)

このことはとても重要なことで、このことを踏まえることで、安倍内閣の重要施策の一つである「教育再生会議」も、この会議自体が、国民一人ひとりの責務・役割の在り方、果たし方を議論する場になるということが理解できます。

決して、国や自治体がまた何かをやってくれる、ということではなく(もちろん国や自治体の責任・役割も議論されるでしょうが)、国民一人ひとりの責務・役割を憲法の精神の原点に戻って議論するのでないと、「美しい国」の教育論議としては、物足りないものになるように思えます。

不登校の子供達の問題に取り組んでおられるグループの方々は、やはりこの問題を深く考え、義務教育は「子供に教育を受けさせる義務」であって「学校に行かせる義務」ではない、との論陣を張っておられます。http://www.geocities.jp/hikovent/aoitori/columu/c-gimu.htmこの議論を敷衍すると、今の国の普通教育支援制度は、学校教育を前提にしており、学校に行かずに実質的に教育機会を得ている子供達には、義務教育の無償性が及んでいないことになります。教育バウチャー制度は、そのような問題意識もあり、生じてきた手法かも知れません。

誰にとっての権利であり、義務であるか、それを保障する制度はどの程度多様性を持ったものとすべきか、教育は国と自治体でどの様に役割分担を行うべきか、教育財源は国庫で負担すべきか、地域社会から上がる地方税収で見ていくべきものなのか、日本の国際競争力を維持発展していくために産業界は教育に何を期待し貢献できるのか、などの観点をあげるまでもなく、教育問題を巡る議論は非常に幅広く問題意識は尽きないものがあります。

中央教育審議会という組織があり、義務教育国庫負担問題で、私も一時期議論をフォローしたことがありましたが、非常に深い議論をする一方で、やや他分野・他制度に対する誤解や不信に満ちた固定観念から抜けきらない議論があったことが残念に思えたことがありました。中教審と教育再生会議がどのような役割分担をするのか分かりませんが、幅広く国民的議論を行っていただけることを期待します。私自身もケーススタディも重ねて勉強していきたいと思っています。

PS
インターネットで平成18年3月12日広島市立己斐中学校長石岡正美校長の卒業生へ贈る言葉が目に入りました。義務教育の意味を生徒に分かりやすく伝えようとしておられます。以下抜粋引用します。

:::::::
義務教育の義務とは次の三つの側面から考えることができます。第一に「就学の義務」といって、これは保護者が子どもを学校に行かせなければならない義務で、みなさんのお父さん、お母さんは、本日この義務から解放されたわけです。第二は「学校設置の義務」で、私たちが住んでいる広島市が生徒に勉強を保障するために学校を作る責任があるということです。第三は「教育保障の義務」といって、学齢期のすべての生徒が教育を受ける権利を、国と地方公共団体が保障する義務をいいます。したがって、九年間の義務を終了したということは、日本国民としての基礎的な力を身につけたと社会が認めたことであり、これから先は義務ではない、自分の人生は自分の責任で歩いて行かなければならないという意味です。

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