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July 09, 2006

ホーチミン市の発展と戦争の傷跡

フエの空港から成田への直行便がないので、フエから国内線でホーチミン市に飛び、そこから8日土曜の深夜の便で成田に帰ってきました。

ホーチミン市内で一泊しましたが、流石にこの間の暑さで、訪問団の何人かは、体調を崩してしまいました。それでも、ホテルで暫く休息をとると回復するのですから、人間の体は良くできています。

ホーチミン市の空の玄関は、タンソニェット空港です。ベトナム戦争時にはよく聞いた名前の空港です。現在日本の援助で拡張工事が行われていました。とにかく、ハノイもそうですが、ホーチミン市でも日本の経済援助のプレゼンスがとても大きくなっています。地元の英字紙を見ても、一面で日本の経済援助の話が毎日のように掲載されています。日本の国会議員がベトナム政府の首脳と今後の経済援助の継続について話し合った、とか、ベトナム政府は日本からの経済援助をより効果的効率的に活用しなければならないとベトナム政府首脳が演説した、といったような記事を、私も滞在中に目にしました。

確かに、ベトナムは社会のインフラ整備が遅れています。ハード面のインフラだけでなく、ソフト面のインフラ整備も遅れています。ベトナム出国時の出国手続きの大渋滞は目を覆うものがあります。とにかく、係員が、キーボードに一人一人の名前を打ち込んで処理しているのです。この様なシステムの「渋滞」が社会の至る所で目につきます。

近世現代の歴史の殆どを戦乱に明け暮れたベトナム固有の問題はあるにせよ、ベトナムを訪問してい見るとその課題がよく分かります。資料をベースにベトナムの近現代史を簡単に鳥瞰すると以下のようなことになるのでしょう。

1000年にわたり中国支配を受け、1885年にフランスの保護領。第2次世界大戦では日本が占領、日本の敗戦と同時に1945年独立を宣言。独立を認めないフランスとインドシナ戦争が勃発、1954年5月7日、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に勝利、北緯17度を軍事境界線とする休戦協定。北はホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国、南は米国の傀儡政権ゴ・ディン・ジエム大統領のベトナム共和国。統一を悲願とするベトナム民主共和国は、1960年にベトナムを統一する憲法を公布。1960年には「南ベトナム解放民族戦線」ができ、ジエム政権に抵抗。南ベトナム政権支援のため米国は1965年2月から北爆を開始、本格的なベトナム戦争に突入。ベトナムの強い抵抗に、戦況は泥沼化。米軍は1973年に撤退を開始、1975年4月30日、サイゴン陥落によりベトナム戦争終結。1976年に南北の統一。しかし、その後のカンボジアへの侵攻、中越紛争、社会主義の行き詰まりで国際難民の発生などでベトナムは危機に瀕した。その中で、新経済政策「ドイモイ」を採用し、1990年代に急成長。1995年には米国とも国交を正常化、ASEANにも加盟し、経済発展を続けている、というのがベトナムの現状ですが、日本政府もその経済発展には大きく貢献をしているのです。

その発展ぶりが最も目につくのがホーチミン市だということです。ハノイの倍の人口,800万人を数えるホーチミン市は、ベトナム経済の中心地です。ハノイ市やフエ市からホーチミン市に来ると、その活力がよく分かります。バイクが多いのは他と同じですが、車もだいぶ多くなっています。ホテルの近くのベンタン市場の賑わいにも驚きましたが、チョロン地区のビンタイ市場はその規模の大きさ、品数の豊富さには圧倒されます。メコンデルタ一帯の生産物や製品が一堂に集まっています。日本の「太田市場」のような広さとシステムはありませんが、とにかく人間が生活するというエネルギーは凄いものだとこの市場に来ると感じることが出来ます。

しかし、一方で環境汚染が進んでいるのが一目瞭然です。ビンタイ市場の脇を流れて、サイゴン川に注ぐ川の水がまるで廃油を流したように真っ黒でした。これも日本の援助だということでしたが、川の沿岸の家々を撤去し、水質向上に向けての工事が行われていました。環境汚染を伴わない経済成長を果たす手法は、水俣病などの経験を経た日本のお家芸のはずなのですが、より抜本的な支援の方策があり得るように思えてなりません。

市場の他に、市内の歴史博物館、戦争証跡博物館などを駆け足で見て回りました。特に、戦争証跡博物館は衝撃的でした。報道写真を中心に展示がなされていますが、余りに悲惨で日本では紹介されないような写真も展示されていました。枯れ葉剤の影響で200万人が影響を受け、5万人に身体障害が発生したという解説記事もありました。障害を持ったまま生まれた胎児のホルマリン漬けの写真が沢山紹介してありました。ベトちゃんドクちゃんで有名なシャム双生児の双子の写真も展示されていましたが、ガイドのフンさんの話では、ベトナムでは枯れ葉剤の影響で、奇形児が日常的に余りにも多いので、ベトちゃんドクちゃんのことを知っているベトナム人はさほど多くはないのだそうです。そのベトちゃんドクちゃんは、今は24歳になっていると、ガイドのフンさんは語ってくれました。

ベトナム国内には、最近、枯れ葉剤を散布した米国政府の責任追及の主張(2005年時点)があると、展示資料は語っていました。枯れ葉剤を蒔いた側がその国の兵士に影響被害の補償をしているのに、その兵士が枯れ葉剤を使用して大きな被害を与えた国の国民に何の補償も行わないのはおかしいという理屈です。さらに、その論調は、枯れ葉剤を製造した企業の責任も追及していました。枯れ葉剤の主成分はダイオキシンです。殺虫剤感覚で、この猛毒を人間とベトナムの国土に使用した、という非難なのです。

この主張を見て、原爆でも同じ議論があり得るのだろうと、思えてきます。原爆被害者の健康被害は、日本国政府の責任で補償してきています。本来であれば、原爆を使用した国が責任を持つべきなのだと考えるのは、当然なのです。しかし、「国際政治」の上では、そのような議論には持って行きにくい、戦争とはそういうものなのかも知れない、などというと、叱られるかも知れませんが、少なくとも、戦争犯罪に値するような兵器を使用した場合には、そのことが長年に亘って兵器を使用した側のトラウマになるのだということを知らしめることにはなるのだと思います。

因みに、ソウルに韓国政府が設置している戦争博物館があります。こちらはさほど悲惨な歴史を感じさせる内容ではありません。日本の広島・長崎の原爆資料館は、戦争の悲惨さ伝えると同時に、それを精神的に昇華させる展示になっているように思えます。ホーチミン市を訪ね、ベトナムの体験した戦争の傷跡は、まだまだ昇華せず、癒えていないことを痛感しました。

ガイドの話では、ベトナムを訪れる観光客で最も多いのは、フランス人、次いで日本人、そして、イタリア人、スペイン人。最近ではタイ人、韓国人、中国人も多くなっているのだそうです。アメリカ人はさほど多くはないようです。過酷な戦争の当事者であったという過去のトラウマを抱えて、その傷が癒えるには相当の年月を要するものと思われました。戦争証跡博物館には、ボブ・ケリー元上院議員がSEALと呼ばれた精鋭コマンド時代に関与した虐殺行為(1969年)を、本人の写真入りで紹介されていました。彼は、米国大統領候補だったと記憶しています。

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