「陰」と「陽」の経済と財政対策
8月11日に、野村総研主任研究員リチャード・クー氏の「内外から見た日本経済」という講話を伺いました。
クー氏は、現在は、何十年に一度あるかないかの家計も企業も金余りの経済環境であり、政府の資金需要で有効需要を作り出さないと、景気は適切なサイクルに乗れないとの、所論を展開されました。また、経済には「陽」の経済と「陰」の経済があり、「陽」の経済理論は一般に知られているが、「陰」の経済理論は「陽」の経済理論とは異なる発想の転換が必要で、現在の「陰」の経済状況では、民間資金需要が回復し、景気回復が本格化するまでは、政府が財政出動を行わなければならないとの意見を展開されました。
私も、最近、長幸男氏の「昭和恐慌」という本を読みましたが、金解禁時の井上財政とその後の高橋財政のボタンの掛け違いが、その後の日本ファシズムの悲劇につながった遠因となったことを改めて思い起こしました。
一方で、我が国で、「金融危機が激しかったことは、確かにクー理論は、それなりにもてはやされたものの、金融危機がほぼ収束し、状況が変わった現在、金融危機さえ起きなければ、過大な財政出動で景気刺激に走るべきではない、というのがコンセンサスではないか」という意見があります。更に、「クー式に財政出動を続ければ、財政破綻の時期が一気に早まることは確実。現在の財政赤字の水準でも、数年先には財政破綻は免れないのだから、少しぐらい赤字を積み増しても同じだ、と言ってしまえばそれまでだが、破綻回避に動くのが我々の努めではないか。多少の景気停滞は覚悟して、増税するのが今の日本にふさわしい政策だ。」という意見が、現在の主流議論だとも思います。
また、「これだけの巨額の借金を子どもや孫の世代に負担させているという、『世代間の不正義』の評価や、国債は60年償還、今後人口は減る、そんなに経済は成長しないだろう、という将来予測の中で国債返済が大きくのしかかる問題」や、「非常に簡単に言えば、1400兆円の個人金融資産のうち、700兆円を国と地方が吸い上げ、さらに吸い上げ続けているという事態の持続性」、「景気がよくなると、名目金利も上がり、利払いが増えるという問題」などの課題もあります。
様々な観点から考えていかなければならない問題が横たわっていますが、いずれにしても、傾聴に値する講演でしたので、以下概要をお伝えします。
「内外から見た日本経済」
(現在の不況は構造問題、銀行問題が問題ではない)
・今の日本経済に関する基本認識は、一般に言われているように、「構造問題」でも「銀行の金詰まり問題」でもない。
・バランスシート不況に景気循環が重なっているものと認識。
・その理由。①今の日本経済は、世界最大級の貿易黒字で、インフレはなく、為替レートも円高は抑制され、金利も極めて低く、労働争議もなく、謂わば「供給力はあるが需要のない世界」となっている。
・②銀行問題も、経済のボトルネックになっている状況ではない。銀行が機能不全になっているのであれば社債発行が増えるはずだが社債残高は減る一方。ゼロ金利なのに社債償還が増えている。外資系銀行の進出もない。プロジェクトへの資金提供争奪戦もない。
(日本経済に何が起こっているのか)
・ゼロ金利状態で企業が借金返済を急ぐ理由は何か。
・それはバランスシート問題が根底にある。資産価格が大幅に下落。ゴルフ会員権は一頃の1/10に。株は外人が買いに入っておりまだましだが、それでも1989年末からの土地と株のキャピタルロスは1400兆円に上る。日本の3年分のGDP相当が吹っ飛んだことになる。
・第二次大戦で日本が失った資産価値はGDPの1年分といわれた。世界恐慌時も米国のGDP1年分が4年間に失われたと言われた。当時は借金で株を買い、借金払いが大きな景気停滞の原因となった。
・現在の日本経済の根底には、歴史上希な資産喪失が起きた。バランスシートを改善するため、借金返済を急いだ。キャッシュフローは大丈夫。本業の稼ぎを借金返しに向けてきた。
・こうした企業行動は、個別企業の行動としては全く問題ないが、皆が同じ行動をとったことで大きな問題となった。
・過去の部門別資金過不足の状況を見ると、家計の資金余剰を企業部門が吸収し、設備投資を行ってきた。バブル時代は、これが極まった。今は、家計の貯蓄過剰を企業が借りないどころか返済している。最近では家計の資金余剰がリストラなどで小さくなり、企業の資金余剰が巨大になっている。銀行に貯まった金が投資に回らない。
(大恐慌シナリオを回避した政府支出)
・本来ならばこの経済状況は大恐慌シナリオだ。需要収縮により、GDPが激減するはずだ。しかし、そうなっていない。何故か。それは政府の大幅な財政赤字が余剰資金を吸い上げ、需要不足を補っているからだ。デフレ状況を是正しているのは、実は政府部門であり、政府が財政支出で資金を回しているから経済は循環しているということになる。
・政府の行動が、大不況シナリオを直し、「奇跡」を可能にしている。
・「危機を回避した人は英雄にならない」と言われるが、その通りの状況だ。危機が起きないので、皆危機のことを理解せずに、本来ならば「危機回避の英雄的行為」が「放漫財政」として批判されることになる。
(企業の借り入れの増加の兆し。しかし依然として必要な財政支出)
・小泉政権の「構造改革」で、政府の財政も少し均衡化の兆しが見えてきている。しかし、「構造改革」路線は現時点で果たして正しい選択か。
・現在銀行の企業向け貸し出しは大幅に下がっている。GDP比率で50%の水準に落ちているが、これは最近にない低水準。
・バランスシート回復で松下電器がもてはやされているが、日本の企業はそろそろ借金返済が収束しつつある。このところ、上場企業で借金を減少させた企業の割合がまだまだ大きいが、その割合が少し減り、借金を増加させた企業の割合が少し増えている。この数年で借金を増やした企業の割合が追い抜くものと想定している。これは景気回復に朗報だ。
・その意味では、景気の腰を折らないために、あと数年は、財政支出を機動的に行うことが必要となる。
・バランスシート不況に、金融政策は役立たない。
・マネーサプライは金を借りる人がいて成り立つ。現在マネーサプライは伸びているが、これを受け入れているのは、実は政府の借金。
・日銀の「量的緩和」措置も、民間向けに機能せず、政府の資金需要で捌けている。これは異常事態。
・こういうファンダメンタルを無視して、財政再建を急ぐのは、時期尚早。これが現実だと言うことを理解することが必要。
(景気循環局面の変化。中国と米国)
・現在の景気循環の側面を述べる。
・この数年日本の対中国輸出が急速に増えているが、ここに来て流石の中国政府も引き締めに入っている。
・対米輸出も好調だが、米国の貿易赤字は膨大で、遂にGDPの5%を超えた。大統領選挙が終わり、米国当局者も深刻に受け止め始めた。
・米国政府は、これまでは貿易赤字はマネージメント可能だと考えていた。ドル安にせず、金利を上げないということを基本に、ドルへの投資(対米投資)さえあれば赤字を相殺できてきた。
・しかし、これだけの赤字規模になると、問題を深刻に受け止めざるを得なくなってきている。グリーンスパンFRB議長も、「ドル安」の可能性に言及。グリーンスパン議長は、2005年2月17日の下院金融サービス委員会での「外国がドル債を買わなくなったらどうか」との質問に対して、「金利はわずかだけ上がることになる」と証言している。
・実は、1987年に、外国のドル債の買い控えで、6週間で金利が1.5ポイント上昇した局面があった。そういう経験があるにも拘わらず、ドル安を容認する発言には、それなりの背景がある。
・それは、実は、米国も、ITバブルへの過大投資でバランスシートが悪化し、それに加えて企業コンプライアンスの規制強化で、バランスシート不況の様を呈している。現在の米国企業の役員室の会話は、金儲けではなく、コンプライアンスの話ばかりだというジョークが語られているほどだ。
・そういう意味では、米国も金利上昇の局面にはなく、それがグリースパン議長の「安心感」につながったと考えられる。現在は長期金利4.6%という低金利状態なのに、米国企業も借り入れを行わない。企業が借り入れを行わない分、家計と政府が借り入れを拡大、ITバブル崩壊の影響を住宅バブルが吸収している。
・米国としては、むしろ長期金利が上がって欲しいと考えている。2001年、長期金利の引き下げにより住宅バブルを発生させたが、2004年からのFFレート(代表的短期金利)の引き上げにも拘わらず、住宅価格は上がり続けている。これは企業の資金需要が少ないので長期金利が上昇しないためだ。
(石油価格上昇とドル価格)
・しかし、2005年2月以降の石油価格の上昇で、ドル防衛の意識が高まってきている。2004年の石油価格上昇は石油先物価格が上昇しなかったので一時的な現象と認識された。しかし、2005年2月からの上昇は先物価格も上がり(60ドル)、一時的なものではないとの認識。
・となると、ドルにとっては、脅威になりかねない要素が出てくる。石油はドル決済。石油価格が上昇する際にドルが下がると、ユーロシフトが起きかねない。現在米国はドルを発行し、自国通貨で石油を買えるが、ドルの価値下落を咎めたアラブの産油国が、仮に、ユーロ決済を決めるようなことになると、ドル暴落の可能性が生じる。現在の局面で、米国にとっては、ドル不信は国益に反する。
・過去に、アラブ産油国が、石油価格をIMFのSDR表示にしようとする動きがあった際に、CIAが事前にその動きを察知し、当時のボルカーFRB議長がドル防衛に動き、ドル表示を維持した経緯もある。
・石油価格の急激な上昇を背景に、米国がドル安容認を口にしなくなっている。
(日・米・独ともバランスシート不況)
・実は欧州の経済大国ドイツもバランスシート不況。2000年のIT投資が、ITバブル崩壊で過大投資に。その回復で企業が借金返しに。家計の資金余剰は政府と海外へ。
・日米独という世界の3大経済主体が全てバランスシート不況。
・仮に、企業がバランスシートを回復しても、暫くは、「借金拒絶症」を引きずることになる。その後少しずつ、「陽」の世界に入っていく。
(「陰」の経済、「陽」の経済)
・バブルとバランスシート不況の景気サイクルには、陰と陽の循環がある。これが一巡するのに60年はかかる。バブル崩壊後の調整過程で、徐々に民間の資金需要が回復してくる。本格的な民間資金需要回復により、金融政策が有効になり、財政による資金調達が、むしろ民間投資のクラウディングアウト効果を持つようになって初めて財政再建を本格的に進めるべきである。
・現在の財政再建は60年間のスパンで考えないと、処方を間違う。
・今は、「陰」の経済に妥当する理論が必要だが、「陽」の経済理論しか確立していない。「陽」の経済理論を単純に宛てはめると間違えを起こす。竹中平蔵大臣の構造改革路線は、現時点の処方として間違っている。
・現在の中国経済は、「陽」の経済の中にあるが、注意すべきは、中国経済は貿易黒字で資本輸出をしているということ。やはり貯蓄過剰である。過剰貯蓄状態を前提に考えていかないといけない。
(大恐慌の経験を生かす)
・米国でも大恐慌後、借金恐怖症に陥り、大恐慌後30年経過して、金利水準がやっと1920年代の水準に戻っている。
・その経験を踏まえた、経済財政政策が必要だ。現在は財政出動をためらってはならない時だ。
・現在求められるのは、総理がテレビを借り切って、現在の「真」の経済情勢を分かりやすく語り、合成の誤謬に陥らないような企業行動を求めるべき時である。
・ナチスと闘っていた時代のイギリスは、国家がGDPの250%の負債を背負った。しかし、チャーチルは、借金をためらわず、スピットファイアーを作り、ナチスと戦って勝った。戦後もこの借金はコントロールできた。
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