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August 01, 2005

「入唐求法巡礼行記」を読む

比叡山の僧円仁(794-864)が承和5年(838)遣唐使の一行に加わって唐に渡り帰国するまでの約10年弱の間の記録日記、「入唐求法巡礼行記」という本があります。

職場の上司から、「是非君に読んでもらいたい」ということで渡された本です。岳父の告別式の前後に読み終えました。何やらこのところ、宗教心が芽生えたかのようです。

この本は、最後の使節となった承和の遣唐使の一行に参加した円仁の難行苦行の自筆日記であり、職場の上司はこの本を薦めることで私に何を伝えたいのかなあと一瞬考えましたが、読み進むうちに、上司の意図のことはすっかり忘れ、昔の高僧の真実を求める知的探求心の凄まじさを思い知ることになりました。

円仁の略歴は、「平安初期の天台宗の僧で、慈覚大師とも呼ばれる。15歳で比叡山延暦寺にのぼり、最澄に師事。838年(承和5)入唐、847年(承和14)に560巻あまりの経典をもって帰国。その後は第3代の天台座主となり、天台密教の基礎を築いた」というものです。

日記は勿論漢文であり、現代訳書としては、円仁著、足立喜六訳注、塩入良道補注『入唐求法巡礼行記』1、2、(平凡社東洋文庫)があり、私もこれを読みました。

円仁入唐の経過、揚州府開元寺での滞在、山東経由の北上、山東から五台山巡礼、五台山で天台宗典籍を写して長安に上り、大興禅寺と青竜寺において密教の作法を受け、武宗の徹底的な廃仏棄釈に遭遇し、帰国するまでの苦難力行が記されています。

円仁は当初、藤原常嗣率いる遣唐史使節に参加したものの、唐に滞在して「求法」の動機から単独行動をとりました。日記の中には、唐の役所の公文書を記録し、宿泊施設、交通地理、経済、官庁の機構、行事、唐の寺院生活、仏教儀礼、仏教界、廃仏の実態などを細かく観察し、9世紀の中国に関する第一級史料となっています。

玄奘の「大唐西域記」、マルコ・=ポーロの「東方見聞録」と並び、東アジア三大旅行記の一つとしても高く評価されているのだそうです。因みに元駐日大使ライシャワー氏は本書の英訳と研究によって博士号を取得したとのこと。このことは、恥ずかしいながら知りませんでした。

以下、この巡礼行記の非常に簡単な要約です。

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838年(承和5年)6月13日、博多で遣唐使船に乗船。遣唐大使は藤原常嗣。7月2日、殆ど難破しかけ、命からがら長江の北岸の東梁豊村に上陸。7月26日、この地方の大都市揚州に赴き、天台山行きとを願い出るものの勅許が得られず、開元寺に逗留。翌839年(承和6年)、2月25日、円載のみ台州行きが許され、円仁らには帰国するよう命令。しかし円仁は希望を捨てず、大使が出発した後も弟子4名で山東半島に移り、新羅僧と身分を偽わり、天台山行きの機会をうかがった。

この間、天台山ではなく五台山であれば可能性があるという示唆を受け、関係方面に当たったところ、840年(承和7年)2月24日に至り、登州文登県の役人がやっと通行手形を発行、おまけに登州の長官からは布施を施すなどの丁重な扱いを受けた。
 
円仁は、五台山に向かったものの、沿道の地方では蝗が大量発生し、米穀の値段が跳ね上がるなどの事態にも遭遇。

目指す五台山に近づくにつれ、絶景の景色が円仁を迎えた。「山風は漸く涼しく、青松は嶺に連なる。」、「西行すれば嶺高く谷深し。」、「翠嶺は雲を吐き、谿水は緑流を瀉ぐ。」、「山巌は崎峻にして天漢(天の河)に接せんと欲し」という絶賛の形容。

5月1日、五台山の中心地、竹林寺に到着。五台山に2ケ月ほど滞在のあと、長安に出立。8月22日、長安入り。資聖寺に寄住。この後の2年余りが円仁にとっては求法に最も専念できた時期。しかし、842年(承和9年)に至り、時の皇帝「武宗」が、道教に執心、仏教、マニ教の徹底的な排斥に乗り出した。僧尼条流(処置)の詔勅が発出され、僧侶の還俗命令、寺院の廃棄が大規模に行われるに至った。翌843年(承和10年)に至っては、廃仏の動きは更に激しくなり、寺院の財産は没収、都の僧だけで3000人以上が還俗させられた。廃仏の実質的な推進者は、李徳裕。

廃仏の動きは衰えるばかりかますます激しく、もはや「求法」できる環境ではなくなった。外国留学僧までもが拘禁状態となるに至った。845年(承和12年)、円仁も日本への帰国を命ぜられ、5月15日、長安を出立。揚州を経由で登州文登県に至った。文登県で日本行きの船を待ったものの、日本行き船は滅多になく、出船の知らせに急ぎ駆けつけても出港後だったことも。2年経った847年(承和14年)に至り、漸く日本行きの船を見つけ、9月2日、赤山浦を発し、9月17日、無事博多に上陸、10年弱ぶりの帰国。

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9世紀の当時、海を渡る航海術は未熟で、まさに命がけの渡航であった上に、唐の時代の混乱期に遭遇し、「求法」の環境は、実に厳しいものでした。気力、体力、能力、胆力が兼ね備わっていないと実現できない偉業だと、ただただ感心の一言に尽きます。

一方、地方長官によって通行手形の発付対応が異なる記述があり、唐の時代から、この国は「法律の支配」ではなく、「人の支配」の国だということを窺わせるものがあります。

こうして苦難の末に手に入れた天台宗教典は、その後の日本仏教の発展に寄与したことは間違いなく、その歴史的意義は大きいはずです。一方で、得たものの評価はその時代時代の価値観により、大きく変わってきます。しかしながら、この円仁の「巡礼」の事実は、日本の歴史に燦然と残っています。結果よりもむしろそれを獲得しようとする努力の有り様が貴重だということなのかも知れません。

我が職場の上司のメッセージは、現在の分権改革に取り組む「姿勢」の重要性を、この本を通じて伝えたかったのかなあと、妙に納得した次第です。

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