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July 02, 2005

金沢市長の体験的教育論・国と地方の役割分担論

「三位一体改革と義務教育費国庫負担金問題」をテーマとした自治学会のシンポジウムが7月2日(土)にプレスセンターでありました。

(金沢市長の講演)
山出保金沢市長(全国市長会長)が、基調講演をされ、義務教育のかかる国の役割と地方の役割を切り分け、国が義務教のあらゆる分野に関与している現状を改め、国は、学力水準、全国的教育水準の達成目標の設定、教育の質の確保、教育標準の設定などに機能を特化し、地方は、国の設定したスタンダードに沿って、カリキュラムの編成、教員人事、教職員の質の向上策などの具体の取り組みを行うべきだ、との所見を明らかにされておられました。

国からみて無視できない地域間格差が生じることのないような制度的担保としては、警察や高校と同じように法令による制度的担保を講じれば十分であり、それ以上の拘束は不要である旨を述べておられました。

一方で、金沢市では、市民の抱える教育問題に対応するための金沢モデルともいうべき取り組みを行っている現状の紹介もありました。「教育プラザ富樫」という、教師や親など教育に関わる関係者がいろんな悩みや知恵を持ち寄っている先進的なセンター機能の紹介がありました。金沢ではこのほかに、学校二学期制小・中一環英語教育金沢スタンダードと呼称される独自の学習指導基準の設定、中学の学校選択制などの紹介がありました。
http://www.togashi.ed.jp/

小・中一環英語教育では、非常勤英語教師をインターネットで全国から募集、その結果募集定員を大幅に上回る熱意と経験と能力のある人材が集まっているとのことです。学習指導基準の「金沢スタンダード」に関しては、例えば、教科書の社会科で「江戸幕府」のところに来たら、江戸幕府との関係で「加賀藩」のことについて深く教えるといった指導基準を設定しているのだそうです。

「私たちに任せてくれれば国よりもよっぽどしっかりやるよ」という実践に裏付けられた自信のあるお話を伺えました。

(シンポジウム)
その後はシンポジウムでした。神野直彦東大教授の司会で、藤田英典国際基督教大学教授(中教審委員、元東大教育学部長)、瀬戸純一毎日新聞論説委員、新藤宗幸千葉大学教授の鼎談でした。

神野教授が、これまで義務教の負担が国の責任で賄われるべきとされてきたのは、「税源移譲」という概念が前提でない時代の話であり、その後の分権議論の進展の中で「税源移譲」という新たな局面で、義務教国庫負担金を地方税源に振り替える議論が出てきたのであり、その前提の変化をよく認識する必要があるという前置きをまず述べられました。

藤田教授は、これまでの学校五日制からゆとり教育の導入、総合的学習の導入といった一連の政治主導の流れに批判を加えつつ、今回の三位一体議論も、教育現場の議論とは全く無関係なところでいきなり負担金廃止、税源移譲という議論が出てきたことに関し、非常な不信感を表明されておられました。その上で、地方の裁量性の確保は、今の負担金を維持しても実現できるのであり、負担金を廃止し税源移譲して教育環境が良くなるとの確証が得られない、逆にこれにより教育は悪くなるという確信を表明されておられました。特に、現在の特区の制度を活用した各自治体の取り組みは、それぞれの自治体の教育委員会が言い出しているのではなく、その団体の首長の「独善」による格差を拡大するような改革であり、例えば、群馬県太田市の小中一環教育も「格差」を助長する改革であり、日本の社会の美徳であった平等、機会均等を破壊する行為であり、負担金の一般財源化で更にその傾向が強まることを大いに懸念すると指摘されておられました。更に、住民の声は、果たして適切に地方自治体で反映されるか極めて疑問であり、教育問題だけで選挙が争われるわけではない、むしろ国の場でこそ公論が確保されると考えた方が適切であり、地方の教育責任を今以上に重くすることになると、失敗するところが増えることは確実である、との所見を表明されておられました。

瀬戸論説委員は、一般財源化を進める観点で次の点を指摘されました。確かに中教審の議論は負担金堅持が多数であるが、新聞各社の論調で言うと、むしろ一般財源化を支持する社の数が多い。その意味では中教審の議論は必ずしも世間の声を代弁しているわけではない。今回は、負担金を地方税源に移し替える点が重要である。国庫負担金と交付税がどちらが不安定化といわれれば、どちらも不安定であると答える他はない。義務教経常経費8.7兆円のうち、現在では2.5兆円しかない国庫負担金が無くなったとして、それで義務教育が崩壊すると言い張るのはいかにもおかしい。むしろ負担金が削減されることで文科省のバックボーンが無くなる危機感があるのではないか。その証拠に、これまで私のところにレクに来たことの無かった文科省が、この半年の間にこの問題で3回もレクに来ている。文科省は、国庫負担金制度を活用して結果として中央統制的教育を実現してきている。これを背景に学級編成も規制してきた。少し前までは、40人学級を少人数化する地方の取り組みを一切認めようとしなかった。1956年に地教行法を改正し、文部大臣の関与を強めて来た。その後は、むしろ、外部からの圧力があってやっと地方の裁量性を認める制度改正が行われてきた。残念なのは、「教育面で地方の裁量性を発揮して下さい」、「創意工夫をして下さい」、と当時地方に言っても、肝心の地方の教育現場が、醒めていた。「面倒くさい」、「言われたことをやっていた方が楽だ」と。こうした上位下達の風土が染みこんだ長年のやり方の為に教育現場が考える力を無くしたことが、実は教育の中央統制の最大の罪だ。今回は三位一体議論の中で初めて地方が自らやる気を見せたということが何にもまして重要だ。折角ここまで来たのに、「地方は信用できない」と言って突き放したのでは、地方分権など永遠に実現できない。リスクは、むしろ飛躍への大きなチャンスなのだ。

新藤教授は、更にラディカルに現在の文科省、教育行政学者の議論、義務教育国庫負担金にまつわる弊害を次のように批判されました。例えばあれだけ文科省を教育政策を批判してきた東大の苅谷教授が、負担金議論になると文科省擁護論を展開するその学問的整合性が窺い知れない。義務教育は、「教育面の国家機能の発現」であるとの設定がそもそもおかしく、主体は国、客体は国民という発想からはおよそ教育の分権議論は出てこようもない。教育行政の命題が一般行政からの独立といってもその頂点に立つ文科省が内閣の一員であることはどう説明していくのか。義務教育負担金議論は、教育の分権化のいわば入り口であり、敢えて言えば初等中等局の廃止無しには分権は成り立たないということである。もともと戦後の省庁改革時に、国民の皇国史観という思想教育を押し進めた文部省は存続出来ないと日本政府自身が覚悟しており、中央教育委員会とせいぜい学芸省というような形での存続を目指したのが、何故か内務省だけが廃止され、文部省は生き残ったが、これは謎である。そもそも、国民は今の国庫負担の現状を知らない。義務教育費は全額国が負担しているとすら殆どの人は思っているのではないか。公立高校にも国費が入っていると思っているのではないか。実際に、義務教育に1/4位しか国費が入っていないなんて知らないでいる。せいぜいその程度の話なのだ。義務教育行政の円筒形の縦割り社会を打破していく、というその道筋の入り口が義務教育費国庫負担金の廃止なのだ。そもそも、全国教育長会が霞ヶ関に事務所まで構え、文科省と打ち合わせまでしている。思想的に右から左までの教育関係者が名前を連ね、読売新聞に意見広告を出すという現状をどう思うか。教育がおかしくなったとして、それであれば選挙で首長をかえるのは、文科省の役人の考えを変えるよりもよっぽど容易である。直接公選の意味は大きい。中教審は、国民参加の場だといっても、「文科省に都合の良い筆を集めただけ」である。今必要な layman control は、地方分権的構造の中でこそ実現できる。

藤田教授は、瀬戸、藤田のお二人の意見に対して、現在先進諸外国では、日本以上に深刻な教育問題を抱え、中央政府の教育への関与を強めようとしている、ドイツ然り、イギリス然り、であり、その中で、ドイツは連邦制の中で中央政府が教育に適切に関与できない問題意識があるとの議論の紹介があり、その上で、義務教育負担金廃止による教育へのメリットが見えない以上、これには反対せざるを得ないとの立場の表明がありました。その中で何度も表明されたのは、民営化、規制緩和などの動きの中で、地方自治体に財源責任まで付与すると、全国的な機会均等が危うくなる旨の懸念が表明されました。国庫負担金を中核とした、教職員の専門性確保こそが義務教育の水準を保てるのだというお話でした。

これに対しては、新藤教授から、義務教育の縦のラインの「専門性」は、今日的には、巷に溢れている。むしろ、これまでガチガチに国庫負担金で固めて、日本の義務教育の水準がここまで下がったという実態を見て何と説明するのか、との厳しい指摘がありました。

神野教授からは、政策というのは、国であれ地方であれどのレベルでも誤ることがあるが、それを全国一律で誤るのか、一部の地方の失敗を見て他が教訓としていくのか、中央主権と地方分権にはそういう(リスク上の)差があるのではないか、との指摘も行われました。

瀬戸論説委員からは、文科省が設置に反対した「臨教審」は、これからの教育の方向性として、多様性、地方分権、自立という方向を示しており、国家にとっての有為な人材をつくるよりも、自分で考え、自立できる日本人を作ることが必要とされている今日、大きな方向としては、分権に沿った制度の改革が必要であり、国の役割は自ずから変わっていくべきであるとの指摘がありました。

最後に神野教授から、現在の三位一体議論は、地方分権の議論と財源圧縮の議論が並行しており、そのことが教育関係者にも不安をかき立てている側面がある、今の経済危機が社会の危機にまで拡大しつつあり、人々の安全・安心に対する心配が嵩じている、その中で、何を目指して改革をするかという方向性が重要であるとの話で締めくくりとなりました。

私自身の感想ですが、一般財源化で何が良くなるのか、悪くなるのかについては、やはり抽象的な議論しか出てこないように思えます。最後は一般財源化のメリットを地方が証明するのか、国庫負担金でなければならない理由を国が証明するのか、その挙証責任の押し付け合いをお互いに行うことになるということが中教審のみならず、今回のシンポジウムでも明らかにされました。

神野教授の締めではありませんが、最後は、世の中の流れをどのように見るのか、地方自治の在り方をどう考えるのか、民主主義をどこまで信頼するのか、国家官僚と自治体の首長のどちらを信頼するのか、その人にとっての国家観が何なのか、という極めて理念的な議論に収斂していく議論のように感じました。

いずれにしても、中教審の議論よりは数段レベルの高い話を伺えたように思えました。藤田教授も「勉強になった」とおっしゃっておられました。



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