« 私の「舞踏会の手帳」 | Main | メトロポリタン美術館 »

April 30, 2005

「晴れてよし曇りてもよし不二の山」

「晴れてよし曇りてもよし不二の山 元の姿は変らざりけり」と超越した心境を詩に詠んだ幕末から明治にかけての一人の男の仕事ぶりに接する機会がありました。

佐藤寛という山岡鉄舟研究家の「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(光文社新書)によってです。山岡鉄舟は、時代の変革期に与えられた仕事をきっちりとこなして、変革の時代のいぶし銀のような存在として知られる人物です。

鉄舟については、官軍を突破し、官軍本営が置かれた駿府で西郷隆盛と交渉し、江戸を無血開城し、無用な維新の混乱を回避したという捨て身の功績は知っていましたが、それ以外の功績は正直なところ知りませんでした。このほかに知っているということと言えば、私も茨城県勤務経験があり、昔の茨城県幹部の一覧を見る機会があったときに、明治4年に廃藩置県で茨城県が成立した際に、初代の参事(当時はまだ県令が発令されず事実上の茨城県トップ)としてごく短期間在籍したことを知ったことでした。

当時は何故旧幕臣たる山岡鉄舟が顕官に叙せられたのか突き詰めて考えることもなかったのですが、この本を読むことで、鉄舟が無私に徹した行き方を貫くことで、敵味方を問わず信頼を勝ち得た結果だということが理解できました。

江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、単身で西郷と面会。開城の条件について合意を取り付けることに成功した折、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたことは有名な話です。

明治維新後、徳川家達に従い駿府に下った際は、徳川家の大リストラを引き受け、士族授産プロジェクトとして、困難な茶畑開発を成功に導いた話は始めて知った次第です。

廃藩置県に伴い新政府に出仕、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任する中で、茨城県、伊万里県とも維新後の混乱した派閥抗争を、持ち前の切れ味鋭い仕事ぶりで収拾した事実が描かれています。

酒宴で鉄舟を飲み潰そうとした相手を逆に飲み潰させ、翌朝遅刻したその者を大喝し解任、後任に人望のあった山口某を権参事に発令、その山口権参事も旧怨を捨てて仕事に励んだ・・・というストーリーが続きます。伊万里県の内紛も同様の手法で短期間で収拾し、東京に戻っています。

その後は、西郷の依頼で、明治5年に宮中に入り、侍従として明治天皇に仕えたとのこと。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇を諫言したり、明治6年に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが記されています。与えられた職務を誠実にこなし、無私の仕事ぶりが周囲に好感を持って受け止められていった様子が描かれています。

鉄舟の精神修行の背景には、剣・禅・書があったとの見立てが本の中で記されています。何か一つのことに徹底的に打ち込むこと、そのことで、揺るぎない自己が確立されていたのが山岡鉄舟だったのだと思った次第です。明治維新で欧化主義が蔓延する中で、武士であることの誇りを失わなかった人物の生き方は眩しく映ります。

|

« 私の「舞踏会の手帳」 | Main | メトロポリタン美術館 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58165/3925318

Listed below are links to weblogs that reference 「晴れてよし曇りてもよし不二の山」:

» 月刊ベルダに連載はじまる [山岡鉄舟 研究会]
当サロンのメイン講師であり山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏が、月刊ベルダの6月号より... [Read More]

Tracked on May 19, 2005 at 10:11 AM

« 私の「舞踏会の手帳」 | Main | メトロポリタン美術館 »