« 英国の教育改革 | Main | 松本市合併記念式典 »

March 31, 2005

義務教育財政史

義務教育制度発足以来の義務教育財政の歴史を辿って整理してみました。

平嶋彰英という分権と地方財政に詳しい知人が調べたものをダイジェストして整理してみました。国庫負担金と財政調整制度を巡る一世紀以上に亘る議論の経緯がコンパクトに分かると思います。歴史を紐解くことで、義務教育財政制度にかかる文部省の立場や地方自治体の立場なども浮き彫りになってきます。

1 学制の発布から始まった義務教育と加重な市町村負担
・わが国における普遍的な教育制度は、1872(明治5)年8 月の文部省布達第14 号の「学制」によって普及が開始。学制は府県小学校経費は地方費をもって賄うことを本則とし、学区の経費の大部分は課税・寄附および授業料徴収をもって支弁された。
・当時も国庫補助である小学校扶助委託金(1877(明治10)年からは小学補助金と改称)が交付された。これは文部省予算の40%には相当したものの小学校費に占める割合は3%に過ぎず、きわめて少額。
・学制の後、1879(明治12) 年に教育令、1880(明治13)年に改正教育令が公布され、1885(明治18)年には「小学校令」が公布。これにより、文部省および府県の監督が強化されたが、費用については小学校においては授業料を徴収し、それで賄えないときは区町村費で補填することとなった。また改正教育令で国庫補助は廃止され、必要な場合は府県が補助する仕組とされた。
・こうした事情を背景に授業料は高騰し、就学率は低下。議会に対しては請願が相次ぎ、1896(明治29)年に「小学校教員年功加俸国庫補助法」が成立。その内容は、教員に対する年功加俸を補助するのみで市町村財政負担の圧迫を緩和するようなものではなかった。
・1900(明治33)年の改正小学校令は、授業料徴収主義を廃止して無償化、市町村財政で賄うこととした。しかし、「授業料不徴収による財政的ロスの補填はなく、地方財政にそのまま押し付けられた。」、小学校教育費国庫補助法が成立したものの、補助の対象は年功加俸と特別加俸であり、「困窮した市町村財政に多少の潤いをつけてはいるが、ものの数ではなかった」(伊藤和衛『教育財政学』1952 年)。
・ 1917 (大正6)年までの小学校教育に対する国庫支出金を称して、全国町村会五十年史(1972 年全国町村会編)は、「義務教育費総額に対し九牛の一毛という程度のものであった。」と評している。

<2004 年の中央教育審議会初等中等教育分科会教育行財政部会教育条件整備に関する作業部会中間報告は、「明治33 年、国による財源保障制度が整備されたことにより、はじめて義務教育の無償制が確立された。・・・このような歴史的事実が示すのは、義務教育への完全就学の実現のためには無償制の確立が必要であり、無償制の確立のためには国による財源保障措置が不可欠であったということである。」としているが、実態からするとこの認識は事実誤認があると言わざるを得ない。>

・ 1911 (大正元)年における市町村立小学校費に占める国庫補助の割合は、0.01%に過ぎず、府県補助金の0.4%もはるかに下回る。1917(大正6) 年に原敬ほか7 名より衆議院に提出された建議によれば、「市町村の教育費は年々増加して・・・巨額に上り、市町村総額経費の4割を超え中には7割以上を超えるもの少なからず・・・これがために地方の衰微を招き、自治団体の発達を妨ぐるの兆候歴々見るべし。」という状況であった。特に、町村の状況が厳しく、「地方教育財政の問題は主として町村財政における教育費の問題であった。」(内藤誉三郎『教育財政』1950 年)とされる。

2 市町村義務教育費国庫負担法の導入でも不十分な財政支援
・ こうした状況に加え、明治40年の義務教育の年限の延長もあって困窮をきわめた市町村財政を踏まえ、1917 (大正6)年には数々の建議や法律案が国会に提出され、これを踏まえた「臨時教育会議」の答申に基づき、1918(大正7) 年に「市町村義務教育費国庫負担法」が成立した。
・ これは、市町村義務教育費国庫負担は毎年1,000 万円を下らないことと規定され、尋常小学校教員数と修学児童数とに比例して配分することが原則とされた。総額の10%以内は財政力に応じて配分されるため町村に配分が厚くされるなど、増額負担金の過半は負担軽減に用いられ、教育補助金たると同時に財政補給金として地方財政調整制度の役割も担うものであった。1922(大正11) 年度まで1,000 万円、1923(大正12) 年に4,000 万円に、1926(昭和元)年にはさらに7,000 万円に増額され、増額分3000 万円のうちの88%は地方税負担軽減のための補填財源に使われるなど財政調整制度の性格を強めた。1927(昭和2) 年は7,500 万円、1930 (昭和5)年から1939(昭和14)年までは8,500 万円とされた。
・ 1918(大正7) 年当時の市町村立小学校費に占める割合は10%程度であったが、1922 (大正11)年には5%程度に低下し、1925(大正14)年で16%程度となっている。1919(大正8)年に全国の市町村長が行った「小学校教員俸給国庫支弁請願」には、「従来国家の教育国民の教育にして土地の如何を問はず自治体の貧富を論ぜず画一の制度を以て等しく此れを強制するに拘はらず其経費は全部此れを自治体に負担せしめ国家は毫ごうも之れに関知せず只大正七年以来義務教育費国庫負担法の実施せられ義務教育費の一部を支弁せらるるありと雖いえども其額零砕にして到底自治体の経済を救ふに足らず」とある。
・ 義務教育費への国の財源付与が不十分であることに対する対応が、全国町村会の設立の契機ともなっていった。「ある面では、地租等の両税移譲を行わない一方で、地方税の国税付加主義と地方財政調整機能をとりいれた国庫補助金による中央集権的地方財政制度の確立の方向」ともいう見方もある(吉岡健次『日本地方財政史』1981 年)。

3 大正デモクラシー下の両税委譲運動と義務教育費国庫負担
・ 大正デモクラシーの中で、政友会が重要政策として地方分権を掲げ、地租と営業税の両税移譲を主張していた一方、民政党は義務教育職員給与の全額国庫負担案を主張。義務教育費と地方財政制度のあり方が、現在と同様、一体のものとして議論されていた。
・1926(大正)15 年の3,000 万円の増額は、当時における税制改革に際して、民政党が義務教育費全額国庫負担を提唱して、政友会の両税移譲の主張と対立したときのもの。
・なお、1932(昭和7)年には、疲弊した農山漁村を救済するための「時局匡済事業」の一環として「小学校費臨時国庫補助法」が制定された。これは、農村の不況によって一部の農山漁村において小学校の教員の俸給の不払いの事態が頻発したことに伴うもの。
・事態は、義務教育費国庫負担金制度の拡充では対応できず、1940(昭和15)年に地方分与税制度の創設や義務教育教員給与費の府県負担制度導入につながった。

<このことは、義務教育費に対する国庫負担だけでは結局、適正な義務教育を維持することはできず、総体としての地方財政への財源保障が重要であることを示しているものとも考えられる。>

4 財政調整制度の導入と義務教育費国庫負担金制度の改革
・ 1940(昭和15)年の国・地方の税財政制度の改革で、地方分与税制度が創設され、あわせて県費負担教員制度が創設されるとともに、国庫負担が定額から定率へと移行し、教員給与実額の二分の一を国が負担する制度が創設され、現在の義務教育財政制度の基礎が発足した。
・改正の主目的は、国・地方を通ずる税制改正や地方税財政改革であって、義務教育費国庫負担制度の改正は、その一環として行われた。
・当時、金融恐慌、世界恐慌の波が農村に及んで深刻な不況となり、都市と農村の経済的格差は拡大していた。1919(大正8) 年に臨時財政経済調査会が、地租および営業税の両税地方移譲を税制整理案として報告して以来、「両税委譲」が政治的課題であったが、それだけで解決できる状況ではなくなっていた。
・この改革の発端のひとつは、内務省地方局が1932(昭和7)年に提案した「地方財政調整交付金制度要綱案」である。農村不況に伴って全般的に地方財政の不均衡が増大したため、これを調整するために提案されたもので、1936 (昭和11)年に臨時町村財政補給金制度として実現し、1940(昭和15) 年の改正における地方分与税につながる。
・馬場税制改革案も発端のひとつとなった。2・26 事件で倒れた高橋是清蔵相の後に広田内閣の蔵相となった馬場鍈一蔵相が提案した税制改革案、馬場大蔵・潮内務両大臣談の形で1936(昭和11)年9 月に公表された。その目標は、次のとおりであり、大幅な増税を伴うものでもあった。
① 中央・地方を通ずる税制の根本的改革を行い国民租税負担の均衡を図ること。
② 租税収入の増加を図り、財政の基礎を確立するとともに、現代の国費を漫然後代国民の負担に残すようなことをしないこと。
③ 中央、地方を通じ弾力性ある税制を樹立すること。
・具体的な方針を、国税、地方税、地方財政調整の3つの項目で述べており、地方財政調整制度の確立の項では、恒久的な地方財政調整制度の創設と並んで、市町村立尋常小学校教員俸給費は道府県負担とすることが記されていた。戸数割の廃止によって生ずる市町村財源の喪失に関しては、市町村立尋常小学校教員俸給負担を府県に肩替りさせる、市町村義務教育費国庫負担金は以後道府県に交付する、所得税の一部及び資本利子税を道府県への財政調整交付金として交付する(一部は、義務教育費の国庫負担金部分以外の負担に当てる)ことが述べられている。県費負担職員移行は馬場税制改革案の一部であったが、二分の一の定率負担については記述はない。
・馬場税制改革案は広田内閣の総辞職と後継内閣における財界の反発等によって実施されることはなかったが、その後の戦争の進捗等によって増税が必要な状況となり、税制調査会の答申に基づき、1940 (昭和15)年度に大きな税制改正が行われることとなった。当時の地方税財政制度改正の柱は、によれば、① 国費、地方費の負担区分を確立すること、② 物税本位の地方税を作ること、③ 地方財政調整制度を新設すること、であった(「地方財政とともに」(荻田保、1984 年)。
・その一環として義務教育費国庫負担制度も改革されることとなり、義務教育費国庫負担法と市町村立小学校教員俸給及旅費ノ負担ニ関スル件(勅令)が公布された。定率負担への移行は、当時、国政委任事務激増の状況で国費地方費負担区分の問題を解決することが、税制改正の効果をあげる前提条件である、との主張が多くの議員からなされた(大蔵省財政史室『昭和財政史』第14 巻、1954 年)。
・当時、高いところでは義務教育費の80%の交付を受ける団体がある一方、20%しか交付されない市町村があり、同じ必要性を持つ義務教育費に対し国が市町村により参与の程度を異にすることにも問題があったこと、さらに法制上小学校教員の任免は道府県知事が行うにも関わらず、その俸給は市町村が負担することは運営面で矛盾を生じていたことなどが背景にあった(「教育財政」(内藤誉三郎、前掲書)。
・戦後の義務教育費国庫負担金の復活に反対して地方財政委員会が提出した意見書の中では、1940(昭和15)年度の地方配付税制度の財政調整は割増人口と課税力による荒っぽい財政調整であっただけに、個々の特定の行政運営について、半額国庫負担の制度をとるというようなやり方をした、そこに義務教育費国庫負担制度の意義があつた。」と説明している。また、大規模な地方税財政制度の改革があったから、義務教育費国庫負担金制度の改革も実施できたという面もあった。
・1939(昭和14)年度時点の義務教育費国庫負担金が8,500 万円の定額に対し、1940(昭和15)年度における実負担額の2分の1負担に伴う予算は9,200 万円と700 万円の増であった。「このような教育費の負担関係の変更は、各府県内の市町村の財政力の不均等を是正するものであったが、それは、道府県間の財政力の不均等の調整を前提として、初めて可能であった。」(大蔵省昭和財政史編集室『昭和財政史』第3 巻、1975 年)ともされており、財政調整制度としての地方分与税制度の実現が不可欠であった。
・1936 (昭和11)年度に2,000 万円でスタートした臨時町村財政補給金は1939(昭和14)年度での臨時地方財政補給金で1 億4,800 万円となっており、1940(昭和15)年度の地方分与税分与金だけでも2 億7,700 万円に達した。1943(昭和18)年には教員俸給以外の経費についても道府県支弁、国庫負担対象に移行し、終戦を迎える。

5 戦後直後の義務教育費国庫負担金の下での地域格差の拡大
・ 戦後直後、6/3/3制による学制改革が行われ、学校教育法は小学校6年および中学校3年の義務教育を規定し、中学校の義務制と同じく義務教育費国庫負担制度の対象も逐次拡大し、1947(昭和22)年度の中学校1年から学年進行して1949 (昭和24)年に完成した。
・義務教育費国庫負担制度においては、1948(昭和23)年7月の改正によって1949(昭和24)年1 月から実施された定員定額制がある。従来の実績の半額負担から、予算的な定員定額の2分の1負担制度に改められたものであるが、ドッジ・ラインによる抑制の一環として、義務教育財政と地方財政に大きな衝撃を与えた。それは1949(昭和24)年度予算に顕著に現れており、当初生徒50 人について小学校は1.5人の教員配分だったものが1.35 人に、中学校は1.8 人が、1.7 人に定員を下げられたというもの。
・前年度と比して大幅な学級編制の低下と教員定数の大幅な縮小を伴った結果、多くの批判を浴びた。教員の人員整理にはならないという当初の文部省の説明にも拘わらず数多くの人員整理が起きたこと、この人数設定では、50 人での学級編制が難しいのではないかと考えられたこと、都市部の地域では50 人で学級編制ができても、たとえば過疎地を抱える北海道などでは田舎はどうしても15 人、20 人の学級編制をせざるを得ないため、平均すると都市部では70 人学級、80 人学級の学級編制となってしまうこと、など多くの批判を浴びた。いずれにしても、現実には難しい緊縮財政を無理に地方に押しつけることとなった。
・この改正について、文部省は、実額主義によって教員給与は府県間において著しいアンバランスを生ずるに至ったためのものと説明し、「教員給与を通じて教育費の合理化、適正化を目指したものであって決して適正な給与の向上を抑制しようとするものではなかった」ものの、「一面においては従来の実績主義よりの移行と昭和24 年度の超均衡予算の煽を受けてこの制度はいわゆる『定員定額問題』として全国に大きな影響を与えたのであった。」という当局者の回顧がある(『教育財政』(内藤誉三郎、前掲書)。
・この間の経緯については、「今なお、記憶に新しい昭和24 年当時、国が義務教育費について半額負担の保障を行っていたときにおいてすら、かのドッジ均衡予算のあおりを喰って、・・・教員給与の定員定額もまた破綻を来たし、全国に一大センセイションを巻き起こした」(「教育財政の研究」(全国教育財政協議会編、1952 年)という分析や、義務教育費国庫負担金の地方財政平衡交付金への移行に関し、「この間における経緯と勧告の精神を仔細に考えるならば、それは定員定額制に対する科学的批判とも受け取れる結果となったと思われる。」(「教育財政学」伊藤和衛、前掲書)というものがある。定員定額制という実質的な補助金削減の動きの中では、国庫半額負担だけでは、義務教育の保障には十分ではなかった。

6 地方財政平衡交付金制度の創設と義務教育費国庫負担金制度の廃止 
・ 定員定額制の破綻の後、1950(昭和25)年度から1952(昭和27)年度までの間、シャウプ税制使節団の勧告により、義務教育費国庫負担制度は廃止され地方財政平衡交付金制度に吸収された。
・ この間、義務教育費国庫負担金の復活につながる動きが盛んで、文部省が計画した「標準義務教育費の確保に関する法律案」とこれを巡る地方自治庁との間の論争が起きている。

7 「標準義務教育費の確保に関する法律案」の議論の顚末
・文部省は、シャウプ勧告の実施に伴う地方財政平衡交付金の創設と義務教育費国庫負担金の廃止によって、定員定額制下の標準教育費の設定を地方財政委員会が行うことになること、平衡交付金が一般財源であるため教育支出が確保されないことを懸念し、地方財政平衡交付金法案の提出と同日に「義務教育の標準教育費に関する法律案」を閣議に提出した。
・その内容は、この法律に基づく標準教育費を平衡交付金の基準財政需要額とし、その額を地方団体は義務的に支出しなければならないこと、文部省は地方団体の教育委員会を通じて各地方団体の標準教育費を取りまとめること、といった内容であった。
・これに対して地方自治庁は、教育費の中央統制で平衡交付金の趣旨を没却する、教育費の需要だけを別算定はできない、等の反論を行い、意見が対立した。
・文部省は、名称のみを変更し、「標準義務教育費の確保に関する法律案」として再度閣議提出され、平衡交付金法案とともに閣議決定された。その閣議後に平衡交付金法案と矛盾することに気がついた自治庁長官が再検討を申し入れ、さらに両省庁で調整が行われることになったが、「支出義務」(平衡交付金の紐付き化)は絶対に譲れないとする文部省の姿勢から、両者の争いは総司令部への働きかけにまで及ぶ紛糾を経て、確保法案は恒久措置でないこととすること、支出義務を若干緩和すること等の修正を行って閣議決定された。
・これに対し、地方六団体は同法案が地方自治の本旨に反し、地方財政の総合的運営を妨げると一斉に反対運動を展開した。国会に提出された反対要望の内容は、知事の予算編成権と議会の議決権を無視、平衡交付金1,050 億円のうち、720 億円の使途を文部省が決めることになりシャウプ勧告の趣旨に反する、義務教育を文部省の統制下に置くもので教育民主化の本旨に反する等であった。
・法案は、閣議決定後に総司令部にもちこまれたが、地方団体は総司令部にも反対の陳情も行い、最終的にマッカーサー元帥から吉田茂総理への書簡において、「平衡交付金の交付に条件をつけたり、使途を制限したりしてはならない」との強い示唆が行われ、法案は、国会提出ができない事態となった。
・その後も、文部省は法案の提出への道を探り続け、衆議院で義務教育費確保に関する決議が、参議院では標準義務教育費法の制定を要望した請願が採択されたが、結局調整はつかず、同法案は提出されなかった。
・その後、文部省内でも義務教育財源確保のため様々な議論が行われ、学区の設定と教育税の創設、教育費平衡交付金構想などが、議論された。そして「義務教育費国家最低保障法案」「義務教育費国庫負担に関する法案」「義務教育就学奨励法案」「義務教育費国庫負担法案」を発表していった(以上の経緯は、主に、『戦後自治史XIV』(自治大学校編、1978 年)に詳しい。)

8 義務教育費国庫負担金の復活
・ 1952(昭和27)年に文部省は新たな「義務教育費国庫負担法案」を発表した。その内容は、結果として成立した負担法とも、当時全国知事会が決議した義務教育費全額国庫負担とも異なるもので、各地方団体の財政力に応じて国が国庫負担金によって最低義務教育費を確保するという内容であった。まさに、地方行政から義務教育行政だけを切り離そうとする内容であった。
・一方、自由党では別途、義務教育費国庫負担法要綱案をとりまとめた。それは定員定額制に基づく二分の一負担を基本とするものであったが、地方財政委員会の「仮に二分の一負担にするならば、実支出額に基づくべき」との意見を踏まえて、議員立法で義務教育費国庫負担金が提案され、1953(昭和28)年4 月に成立するに至った。その際、あわせて、事務職員に対する国庫負担制度、旅費、教材費に対する国庫負担制度が導入された。
・なお、1953(昭和28)年度には、文部省から義務教育職員の国家公務員化と全額国庫負担化するための「義務教育学校職員法案」が国会に提出された。この法案は、吉田内閣時の「バカヤロー解散」で廃案となり、その後も労働界の反対などにより、再度提出されることはなかったが、「義務教育に対する国の責任を明らかにし、義務教育に従事する教職員を国家公務員とするとともに、あわせてその教職員の給与を直接国が負担支給し、もつて義務教育の水準の維持向上をはかることを目的とするもの」であったとされる。

<こうした経緯を振り返ると、義務教育費国庫負担制度の廃止の結果、「義務教育におけるナショナル・ミニマムの水準の確保が困難になった」、「教育条件の低下、地域間格差の拡大が生じたため、改めて義務教育費国庫負担法が施行された」とする中教審作業部会の見解も、やや牽強付会に過ぎると思われる。沿革をたどると、義務教育費国庫負担法の下で定員定額制の導入により地方教育行政を混乱に陥らせたこともあって、シャウプ勧告に基づき平衡交付金が導入されたが、その直後から様々な政治的な動きが絶え間なく続き、妥協の結果、義務教育費国庫負担金が復活した、というのが実態に近い。また、実際の地方財政、教育財政の運営に関して言えば、十分な地方財源が確保されなかったということに根本的な問題があったということのように思われる。>

9 義務標準法の制定
・ その後、1953(昭和28)年に「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」が制定され、1959(昭和34) 年度から施行された。これは、いわゆるすし詰め学級といわれた状況から1963 年度までに50 人以下学級を達成しようとするもので、順次改善していくため第1次公立義務教育諸学校教職員定数改善計画に基づいて政令で経過措置を定めることとされていた。
・ 法律の提案理由説明では、「戦後の学制改革による義務教育の拡充、急激な学齢児童生徒数の増加、さらにはまた近年における地方財政の事情等も影響いたしまして、学級編制基準及び教員定数基準の低下が問題になっておりますことは、まことに遺憾とするところであります。これが改善につきましては、・・・まずその前提として学級編制及び教員定数の標準を明定することが必要と考えられる」とし、また、同時に地方交付税法の一部改正で標準法定数を基準財政需要額算出の測定単位とし、教職員給与費に対する財源措置を国庫負担制度と地方交付税制度とで整備しようとするものであることを述べている。
・ 義務教育費の国庫負担制度のみでは状況は改善できず、地方財源全体の保障が重要であったことを物語っている。当時の地方財政委員会事務局長荻田保氏が、義務教育について全国的に一定の水準の維持と保障は必要だが、国が基準を法定し、「平衡交付金制度がそれを受けて正確に基準財政需要額を測定して保障すればよい」と述べてられていた(「義務教育費国庫負担をめぐって反対覚書」(『ジュリスト』1952 年4 月15 日号)ことが実現したものである。

10 人材確保法の制定等
・ その後の義務教育費国庫負担法に関連する制度改正の推移については以下の通り。
① 人材確保法の制定(1974 (昭和49)年度)
教育界に優れた人材を確保し、学校教育の水準の維持向上を図ることを目的として、1974(昭和49)年にいわゆる人材確保法が設けられ、これに基づき、教員の給与は同年以来3次にわたって他の公務員とは別に特別の改善が行われた。
② 栄養士国庫負担(1974 (昭和49)年度)
学校給食を実施する際に学校栄養職員を置く市町村に対し、国が補助金を計上してその設置を促進していたが、1974(昭和49)年度から県費負担・国庫負担の対象とする職員とし、第4次5カ年計画で改善していくこととされた。
③ 1985(昭和60)年度以降の国庫負担の見直し
1985(昭和60)年度からの高率の補助負担率の引下げ等の国庫補助負担金の見直しが行われた。地方側は補助負担率の引下げは、単なる負担転嫁であり、一般財源化であるべきと反発をした経緯があるが、その過程で、義務教育費国庫負担金についても見直しが行われた。第1は1985(昭和60)年度の旅費、教材費の一般財源化、第2は1986~88(昭和61~63)年度の恩給費・共済追加費用等の負担割合の暫定的引下げ(2分の1から3 分の1)、第3は1987~88(昭和62~63)年度にかけて行われた共済費長期給付に係る負担割合の暫定的引下げ(2分の1から3 分の1)であった。1989(昭和64)年度に共済長期負担金は給与等と一体であることから2分の1負担に復元される一方、給与費本体とは切り離すことが可能な恩給費、追加費用については、順次一般財源化が図られることとされた。

11 三位一体改革と義務教育国庫負担
・従来からの人件費補助の一般財源化の流れの中でも、義務教育費国庫負担金は一般の人件費補助とは区別して検討されてきた経緯がある。臨時行政調査会の第3次答申(基本答申)でも、「義務教育国庫負担金については、地方財源の総体のあり方を含め、今後、検討を行う必要がある。」とされ、地方制度調査会答申(1994(平成6)年)や地方分権推進委員会の第2次勧告も、義務教育を「真に国が義務的に負担を行うべきと考えられる分野」と位置づけていた。
・しかしながら、地方分権推進委員会の最終報告(2000年(平成12年)が、税源移譲を提言したことから、義務教育費国庫負担金のあり方が地方分権改革の論議の中で浮上してくるのは、時間の問題とも考えられた。
・地方分権推進委員会の後継機関として創設された地方分権改革推進会議は、中間論点整理で義務教育費国庫負担金の検討を「避けて通れないテーマ」と位置づけ、中間報告では、交付金制度への移行、将来的な課題としての一般財源化、負担対象経費の見直し、学校栄養職員、学校事務職員に関する国の関与の見直し等を掲げたのである。
・この中間報告と総理の検討指示を踏まえて文部科学省が出した方針は、共済長期給付と児童手当、退職手当を対象から除外し、負担対象経費を在職中の給与費に限定するというものであった。憲法上の要請として、義務教育費国庫負担金制度堅持を主張していた文部科学省が突然出した方針は、地方側から見れば補助率カットの一環として昭和60 年代以降に行われた共済長期給付国庫負担率問題の蒸し返しと映った。到底受け入れられないと、地方団体は反発した。
・その後、議論は、地方分権改革推進会議の「意見」が「制度全体の見直しにつながる契機となるのであれば、その限りで」との留保をつけながらも改革に向けた第一歩と受け止めて文部科学省の方針を是認する一方で、財源措置については税源移譲を明確化しなかったと地方側が受け止めたことなどから、反発は強まっていった。
・ 文部科学省も、地方分権推進委員会第2次勧告が、「国が一定水準を確保することに責任を持つべき行政分野に関して負担する経常的国庫負担金については、・・・その対象を生活保護や義務教育等の真に国が義務的に負担を行うべきと考えられる分野に限定していくこととする。」と提言したことをつとに指摘する。しかし、同時に第2次勧告は「単に国庫補助負担金を削減するため補助負担率の実質的な引き下げを行うような手法はとるべきでない。」としていた。
・その後、議論は補助金、地方税源、地方交付税の三位一体改革が開始し、3 兆円の税源移譲の目標を明確化という流れに移っていった。
・そのようなコンテクストの中で、共済長期給付、退職手当、児童手当の一般財源化、地方六団体による負担金のうちの中学校の一般財源化の提案、これを踏まえた8500 億円の暫定的縮減へと動いている。
・全国知事会が異例の採決を行っても中学校分の義務教育費国庫負担金の一般財源化を提案するに至ったきっかけは、地方分権の名の下に「負担転嫁」と反発されるような方針を文部科学省自らが提案したことにあるという見方をする地方関係者は少なくない。それが、文部科学省による制度運営への不安を高め、税源移譲実現への切実な要請につながったというのである。

|

« 英国の教育改革 | Main | 松本市合併記念式典 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58165/3511046

Listed below are links to weblogs that reference 義務教育財政史:

» [原稿が書けない]設置者と費用負担者 [原稿が書けないっ]
 戦前の北海道では中等学校(主として中学校と高等女学校)を町立学校として数年運営した後、道立に移管(正確には北海道庁立、つまり庁立、同音でややこしい)する、という迂遠な措置が頻繁にとられていた。早い話が、町で学校を作って北海道に差し出し、それによって地域には道立学校が設置される、という事になるわけである。  現在であればこれは、設置者変更という行政手続きをとるのであろうが、国立公文書館の簿冊を見ると、当時はこの行為は「費用負担者変更」と言っていた。  すなおに、かつては設置者と費用負担者が必ずしも一... [Read More]

Tracked on July 27, 2005 at 10:47 AM

« 英国の教育改革 | Main | 松本市合併記念式典 »