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March 27, 2005

米軍慶良間上陸60年目の日に座間味島訪問

2005年3月26日に慶良間諸島の座間味島に行く機会がありました。那覇で講師を務める講習会の後、久しぶりに座間味島を訪問しました。

地元の琉球新報の朝刊をホテルで読んでいて、60年前の今日が、慶良間諸島への米軍上陸の日だと知りました。琉球新報は、「沖縄戦新聞」という体裁を取り、当時の状況のバーチャル報道を行う特集をしているのです(以下のサイト参照)。
http://www.ryukyushimpo.co.jp/okinawa_war/

クイーン座間味という高速艇で那覇の泊港から50分の距離に座間味島はあります。数年ぶりに尋ねましたが、春休みに入っていることもあり、結構賑わっていました。

泊港から村長の仲村三雄さんとご一緒で、島に着いた後も村内をご案内いただきながらいろいろお話を伺いましたが、仲村村長は米軍慶良間上陸時には2歳で、飯釜をヘルメット代わりにして避難したのだそうです。その飯釜が何処かに行ってしまったと残念がっておられました。

「60周忌はなさらないのですか」と村長に伺うと、「沖縄では33年が区切りで、それ以上の区切りの行事はないのだが、やってもおかしくはなかったかなあ」ということをおっしゃっておられました。

慶良間諸島への米軍上陸時に、座間味、慶留間、屋嘉比、渡嘉敷の4島では「集団死」と呼ばれる悲劇が起きていたのだそうです。米軍に捕らわれることを恐れ、集団で命を絶ったのです。座間味では、野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役を含む村職員と家族67人が壕内で死亡したのだそうです。座間味村の丘を上がっていく中腹にその慰霊碑を確認しました。

慶良間海洋文化館という民間の施設が座間味島にありますが、慶良間の歴史を物語るなかに戦時中の写真なども展示され、元沖縄総合事務所の職員をされていたという「館長」さんからも、気持ちのこもったお話しを伺いました。

仲村村長の話では、慶良間の全ての島で同じように集団死があったわけではないとのことでした。座間味の隣の阿嘉島では集団死はなかったとのことでした。その理由について、村長は、「阿嘉の守備隊の鈴木大尉という人物が、命をつなぐ重要性を島民に説いていた。鈴木大尉は、稲作の指導も島民にしていたが、条植えを指導する中で、その技術をきちんと引き継いでいくためにも島民は生き残らなければならないと言って、自らは突撃の死を遂げていった」ということをお話しになっておられました。

座間味など他の島では、別の守備隊関係者が、米軍に補えられた際の恐怖心を煽ることで、村民の半数が亡くなる(400人)という悲劇に繋がったとのことでした。

座間味村の総務課主任の宮里哲さんに島の全体が分かる高台や水源のダムに連れて行って頂き、様々なお話を伺いました。慶良間は、離島でありながら、海に魅入られ都会から移住する人が多く、女性の中には、地元の男性と結婚し、定着している人も多いとのことでした。女性が多く、島の男性にとっては、選択肢が多くて、嬉しいとのことでした。宮里さんも、横浜の女性をゲットし、3人の子供に恵まれているとのこと。途中でお嬢ちゃん2名も車に同乗し、村内を一緒に回りました。とてもかわいい女の子で、将来が楽しみのようです。

一方で、女性にとっては、結婚対象の男性が少なく、結構厳しい環境のようです。チシ展望台に行った折、ホエールヲッチングのために双眼鏡でクジラの所在を追っている都会から来た風の妙齢の女性にお会いしたので、「皆さんもこちらに来られてご結婚されたのですか」と伺うと、間髪を入れずに、「ここではその様な質問は禁句なのよ」と言われてしまいました。後で宮里さんに伺うと、「あの二人も独身なのです」という話でした。

因みに、沖合では、クジラが元気に潮を吹いていました。双眼鏡でやっと見えるほどでしたが、私も3頭の潮吹きを確認できました。彼女たちは、鯨が好きでしょうがないようです。

座間味村は、海洋レジャー、クジラ観光の他に、体験滞在型の観光立村を図り、1000人程の人口ですが、何とか村の生き残りを目指しています。仲村村長も、離島の場合の合併が、本土との比較でなかなか難しいものがあるとおっしゃっておられました。台湾、中国との経済水域の問題などもあり、領土保全という観点から、考えさせられる課題もあります。経済性・効率性だけでは律しきれないものがあるということを感じた慶良間行きでした。

役場の宮里さんから、自分の畑で取れたお芋です、といって、「インカのめざめ」という小ぶりのじゃがいもをお土産で頂きました。若手職員の宮里さんは、昔ダイビングをやっていて役場に就職し、総務課で萬仕事をしながら消防団員としての職務もこなし、また、救急事案があった際などは、救急搬送の自衛隊との連絡に追われるなど、一人何役もの仕事を抱えています。しかし、「島守」として頑張っていくとの気概にあふれているようです。離島という一見難しい環境の中ではありますが、座間味は将来の展望が明るいところです。

高速艇のクイーン座間味の船内で、原島秀毅さんという初代沖縄担当特命全権大使と名刺交換をしました。原島さんは、外務省退官後、沖縄に魅入られご夫妻で沖縄に居を構え移り住まれておられるとのこと。地元の人と、地元の人を応援する人たちの気持ちが沖縄振興を支えているのだと思います。

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