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January 10, 2005

普通江の柳と千波湖の柳

           
韓国北朝鮮の南北首脳会議に先立つ、2000年5月4日(木)から5月9日(火)にかけて、5泊6日で北朝鮮を訪問する機会がありました。茨城県議会の訪朝団への随行は、私にとって、朝鮮民主主義人民共和国に対する現状を把握し、認識を新たにし、再確認するという観点から有意義なものでした。

日本との間で国交のない国に出かけるということについては一抹の不安もありましたが、一応相手国の機関からの招聘を受けてのものであり、滞在中、相当の制約はありましたが、安全面において、現地で特段の問題を感じることはありませんでした。

(経済は本当に苦しい)
たまたま同じ時期に太田前沖縄県知事以下130名の訪朝団が平壌を訪れていたことからも想像されるように、当時は南北の緊張関係が和らぎ、「共和国」も対外的に門戸開放の姿勢を示していた時期でした。

我々が訪問した、共和国と国交のない国との交流の窓口である朝鮮対外文化連絡協会(対文協)副委員長、同局長の話も、「朝鮮半島で戦争が起きると、ソウルは血の海になるが、隣国(の日本)にもよい影響はない」というビクッとさせる内容もありましたが、全体として国際関係の極度の緊張を感じさせる局面は少なく、むしろ困難な国の経済状況の原因(アメリカの「封じ込め」政策)を非難しつつも、「未来を見て今日を生きる」という金正日総書記の言葉を引用するなど、苦しい国情の中で国民の気持ちを将来の希望に向けようとする政府の苦しい立場を垣間見た印象を強く感じました。勿論、北側にしてみると、その将来の希望の鍵となるのが、海外からの経済支援であるのは疑いのないところです。

国民生活が本当に苦しい様子は隠しようもありません。4日の夜共和国に到着しましたが、第一印象はとにかく「暗い」こと。明かりがほとんど見えません。電力不足は明白です。電力がないから、産業活動に血液が行き渡らないことになります。

平壌市内の目立つ位置にある石炭火力発電所から、黒い煙が弱々しく出ていましたが、古い設備で、石炭の不足とともに困難が容易に推測されました。現地の人が異口同音に「電力が最大の課題」と言っているのが嘘ではないのがよく分かます。

もともと北は南に比べ電力は豊富だったようです。日本植民地時代、鴨緑江水豊発電所は東洋最大の発電量を誇っていました。しかし、水力発電はダムの土砂堆積で貯水機能が低下し発電量が減少したようです。戦争に備えた送電線の地下埋設もメンテナンスが不十分で大きな漏電の原因になっているという話でした。

我々一行が泊まった平壌で最も格の高い高麗ホテルの食事も、野菜の種類は少なく、肉、魚は量、質、種類とも質素、しかも値段は非常に高い、という状況でした。市内の「繁華街」でも商品の数は少なく、日用品などは日本ではおよそ売り物にならない類のものが並べられている状況でした。

平壌市内でも数少ない交通信号機は点灯しておらず、婦人警察官が手信号で車を捌いていました。その車も数が少なく、大通りでも簡単に向こう側に徒歩で渡れる程度の車の交通量しかありませんでした。市民の交通手段はほとんどが徒歩。自転車に乗っている人も数えるほど。ひたすら歩く、というのが強烈な印象です。トロリーバスもありますが、数は少なく車内はすし詰め状態。そして、平壌で「太った人」は外国人以外1人も見かけませんでした。今回の一行は、平均体重が多いという意味でも、すぐ目に付く一行であったろうとおもわれます。

農村部ではおよそ商店というものは見あたりません。地域ごとに自給自足なのだろうなと想像してしまいます。交通手段が整っていない、車もガソリンもない、その上融通する物資が足りないのだから論理的にそうならざるを得ません。

穀物を人間に向けるために、穀物を食料にしている動物から、草を食料にする動物の飼育に変える、ということでした。うさぎ、やぎといった動物に重点を置くとのこと。また、魚の養殖に力を入れるという話も伺いました。熱帯ナマズなどもその一環であるという話です。

また、ジャガイモ生産、トウモロコシ生産に力を入れ、二毛作も積極的にしていきたいという話でした。二毛作に力を入れるために、作物の生育期間の短縮が課題だという話でしたが、日本でいうと東北、北海道に近い気候環境の下でどこまでうまくいくか心許なさを感じました。

仮にそれが成功したとして、二毛作による地力の減退により農地の荒廃が拡大しないか心配でもあります。目先の収穫を求め化学肥料に頼ると問題が更に拡大します。

農地の状態は、日本の構造改善事業の成果と比較し、見劣りが隠せません。石混じりの土地、区画がまちまち、配水施設も不十分、機械化が著しく遅れているなどが気のついた点。役牛なども少なく、たまに見かけても極めてやせている牛が目立ちました。穀物を飼料として与えられず腹が空いていてフラフラしている状態のように見えました。水田はともかく、畑地は相当生産性が悪いと感じました。

平壌から坂門店まで高速道路があります、まるで貸し切り道路でした。途中、自転車で高速道路を通行していた人がいたり、徒歩で高速道路を横切っている人がいましたが、それが全く危険な感じがしないのは、状況からして当然であす。

山のてっぺんまで畑にし、国土が徹底的に手を加えられ尽くされています。その手の加え方が、日本人の感覚では、容赦ないもので、自然の荒廃は甚だしいものがあります。山に木がないので保水力が足りず、雨が降ればそのまま流れ落ちてしまいます。逆に雨が降らない時期には川に水がないという有様です。最近山の木を切ってはならないとの命令が出されたという話ですが、国土の回復には時間がかかります。

もともと岩山が多い、戦争で爆撃が激しかった、という事情を差し引いたとしても通常ではあそこまではなりません。38度線の4キロ幅の非武装地帯が比較的緑が多いように見受けられたのは人の手が入っていないと緑が保たれるということの証拠でしょう。

兎に角食料が足りないのだから、自然を犠牲にして農地化していくこともやむを得ない、という説明がありましたが、残念なことです。経済制裁が国土の荒廃を招いている可能性もある(燃料がないので農民が山の木を切り薪に使う)ということを強く感じました。しかしそれらの結果として、95年の洪水のような自然災害が今後頻繁に起こりうる可能性は極めて大きいものがあります。

もともと段々畑は、多年生植物を植え、風防と土砂流失を防がなければならないが、共和国では多くの施肥を必要とする一年生のトウモロコシを栽培したとのことです。集中豪雨で段々畑の流失、大水害というシナリオは容易に推測できます。

集団農場で働く農民の姿を移動中に見かけましたが、てきぱきとやっている風には見られませんでした。兎に角インセンティブがないのだから当然です。住宅の裏庭などの個人農地で栽培されている作物の収穫高は集団農場の3倍はあるという話を聞きましたが、、むべなるかな、とも。
 
車窓から、かごを背中に背負い、野山の草を摘む農民の姿が目に付きましたが、日本でいうとのどかな風景が共和国では気の毒な風景に写りました。集団農場の理念では、あの野草も全員で分けるべきなのでしょうが、それでは誰も採取しなるのでしょう。持ち帰って家族で食するのは当然です。

(エリートのモラールは高い?)
我々が会った人々(共和国のエリート)から受けた印象は、悪化する経済状況にも関わらず、モラールは比較的高いものを維持している、というのが印象でした。これは、先進諸国の繁栄を知らないから「ショック」を受けていないことによるものか、知ってもなおモラールが高いままでいられるか、よく分からないところもありますが、少なくとも表面的な印象はそうでした。

一方で、一般の農民との接触が無かったので一般国民のモラールは分かりません。しかし、集団農場の農民の過酷な力仕事、そして極度の栄養不足からして、一般的にはモラールを維持するのは困難なようにも思われました。生活のために、闇物資、賄賂などが要路にある人に集中する事実が多くあるのではないかと想像してしまいます。

エリートの「モラールの高さ」は、教育の徹底によるものか、情報遮断によるものか、主体思想による社会主義建設がこの国に適合していることによるものか、よく分かりませんが、我々の「意地悪な」質問には「模範答弁」が返ってきました。

「国が苦しいのは主体思想に基づく社会主義の問題ではなく、その成功を妬むアメリカを中心とした反動勢力の陰謀である」。そして、日本には、「過去の罪状を謝罪し、賠償責任を果たして」、友好関係を結んでいくべきだ、と要求していました。確かに、植民地支配時代の日本のやり方はひどく、併合の過程で、朝鮮王朝の王妃を謀殺した経緯などを聞かされると、戦慄を覚えます。その歴史的事実を適切にフィードバックし、歴史的評価を行っていくのは当然の義務なのかもしれません。

(経済的困難の責任)
しかし今日の経済的困難を日本の責任に転嫁されてはたまりません。社会主義経済の非効率性、常備軍110万人(これは世界5位の規模)ともいわれる軍の維持経費、チュチェ思想塔、凱旋門、人民学習堂など非生産的記念物建造の平壌市への整備などの積み重ねが、民需経済部門の疲弊を生んでいると考えるのは我々の目から見ても極めて自然です。

しかし逆に、この強力な軍隊の存在が共和国の政権を維持せしめているのは明白です。国民の引き締め、世界に対し「脅威感」を与えるという意味で。核開発もその延長で、軍事的脅威により食料支援、軽水炉代替など譲歩を引き出したことはその一例です。視察中、国造りに当たって、「軍のやり方に倣う(先軍政策)」、という趣旨の話を何度も聞きましたが、政権が軍を持ち上げ、そのやり方を讃えている姿勢が少なからず伝わってきました。

にもかかわらず、共和国の高等戦術とは言え、今日の共和国の経済的困難の打開策と絡めて謝罪と賠償を請求されることには、一日本国民として釈然としないものがあります。兎に角我々の数世代も前の歴史上の話なのです。世界に後期帝国主義の旋風が吹き荒れていた時代のことです。しかも日本の植民地政策は明らかに間違いでしたが、南北分断は当時の米ソの対立の結果であり、少なくとも直接的に日本の責任とは言えないものだと考えられます。

マッカーサーを押し戻した中国とて、過去においては半島を属国視し、日清戦争で失った朝鮮半島での発言権を戦争介入で取り戻すことに狙いがあったと考える見方が正しいのではないでしょうか。こうした歴史を振り返るとき、日本の責任を明らかにするということは、通常は、南北分断の責任論はもとより、アヘン戦争の責任は、とか、日清、日露戦争の背景は何であったのか、という話に議論が拡大していくようにも思われます。

日本は敗戦国で、戦勝国が敗戦国を裁いた極東軍事裁判で戦犯が処刑されています。しかも、共和国側の「拉致事件問題」、「テポドン問題」、「不審船領海侵犯問題」などは全く取り上げず、一方的に謝罪と賠償を要求する姿勢には正直言って辟易させられます。日本にしてみると、「世界の孤児で居たいのならどうぞそうしていてください、今のままで、こちらが迷惑を被らなければ、それでもいいのです」と言いたいところです。

しかし、共和国としては、自分たちに目を向けさせたい本音もあり、テポドンや不審船で日本を刺激しているように思えてなりません。だだっ子が親の関心を引くために、わざと悪さをするのと本質は変わらないように思えます。
 
願わくば、日本国民が腹蔵ない気持ちで経済支援に応じ得るような、国際バランス感覚を持った対応を共和国にもお願いしたいと思えた次第です。拉致問題解決を含め、条件が整えば共和国に対する相当規模の経済支援を日本が行うことは概ねコンセンサスがとれることなのです。

因みに、テポドンは共和国では人工衛星労働1号であり、打ち上げは成功、ということになっているようです。国民のほとんどがそれを信じているようです。そういう情報統制をしている国と交渉をするのは、事実の認識から根本的に異なるのだから、本当にたいへんだと想像されます。
 
(統一はどのような形で?)
2000年6月12日に南北首脳会談が平壌で行われましたが、私が訪問中聞いた共和国の認識は、金大中大統領の訪朝は、総書記への表敬訪問が行われるような受け止め方でした。

兎に角、共和国の人は、非常にプライドが高いという印象です。世界の中でアメリカに一歩も引かず対峙できるのだから、その意味では、「立派」なのかも知れません。しかし、そのプライドは「武士は食わねど高楊枝」以上の「つきあいきれない」ほどのプライドでもある。

我々が対文協の李副委員長を訪ねたときも、「どこを訪問したか」という質問を受けました。我々は対文協のセットしたスケジュールで動いており、副委員長まで話が上がっていることは当たり前なのに、そういう質問をして答えさせるというのは、いささか違和感というよりは非礼を感じました。予想外の質問で対応に一瞬とまどったところであり、本来あり得る最初の質問は「訪問先の印象は」というのが友好的なものでしょうに。一段上に立ちたいという感覚が些細な表現からも伝わった瞬間でした。

ところで、朝鮮総連茨城県本部副委員長のお話では、朝鮮半島の統一は、一国二制度でいくことが過去において取り決められているという話でした。1972年当時の朴大統領と金日成主席との間で、外交、軍事以外は南北がそれぞれの制度を適用する連邦制で行こうという取り決めがあるとの話なのです。統一後の国名も「高麗民主連邦共和国?」という名前まで決められた、とのことです。これが事実であれば、当事者の間では結構現実的な話し合いが行われているのだと、有る意味で安心するとともに、早期の合意を願う次第です。

兎に角、現在の南北の経済格差のなかで単純な統一が行われると、北から南に民族のなだれ込みが始まり、混乱が起こるであろうことは容易に想像できます。北の経済発展を促し、ある程度均衡がとれた時点で(将来の世代の責任で)本格的な統一に持っていくことが、混乱防止という観点からは穏当なところだと思えます。

その意味で、最初は連邦制で一国二制度の採用というのは、それぞれの政治権力者の地位を温存するというところが本音だとしても、案外結果オーライなのかもしれません。穿った見方かも知れませんが、実はアメリカでさえ、共和国の崩壊を願っていないと思われる節があるのではないでしょうか。クリントン政権のアメリカはKEDOへの拠出を渋る日本に、北の脅威が増大しかねないと脅して、金を出すようにし向けました。アメリカが共和国を実質的に支える気持ちがなければ、KEDOを通じた軽水炉建設支援など行うわけがありません。今のブッシュ政権の対応は当時とは異なるのでしょうけれども。

(条件が整えば支援できる面は多々あり)
茨城県議会では、1983年に共和国を訪問し、今回で3度目、しかも在日朝鮮人学校への助成を全国でも早い時期に始め、その後も継続的に続けてきたことは、有る意味で慧眼でした。これらは、永田町の自民党本部、文部省の反対を制しての行動だったようである。

地方のレベルで国政とは一線を画する立場で独自の行動を行いうるということは、長い目で見て、結局は国にとってもよい結果となることが多いと思われます。政府以外の交流の窓口が無いということは、長い目で見て国の安全弁を失わせることになるとつくづく思います。

日本が当時としては全くおかしな時期(ドイツの旗色が悪くなっていた時期)に第2次世界大戦に参戦したことも、今日では、世界情勢に疎い指導部、そして世界の情勢を多様なルートで情報収集しうるルートに大きな制約があったものと考えられます。

ところで、これからの共和国の国造りには、日本の地方に所在する技術が大変大きく寄与する可能性を感じました。
農業などはその第1順位となるでしょう。食料生産のために土地改良の実施が急務であり、我が国で既に需要の最盛期を過ぎた土地改良技術の人的物的支援が十分可能です。

植林技術、稲作技術、野菜栽培、有機肥料、魚の養殖、沿海漁業など国民の食料確保のために出来ることは山ほどあります。国民の交通手段を便利にするために、自転車を送ることも手っ取り早いと思われます。自転車が高嶺の花で、平壌市内の自転車は皆よく手入れされ大事に使われています。ガソリンもいらないので外貨の心配もいらないのです。古くなった自転車を送れば、移動の時間が短縮され生産性も大きく向上するでしょう。

共和国には貿易に必要な外貨がないのだから、外貨を確保する手法も必要です。しかし、共和国の物資で外貨を稼ぎうるものは、松茸、高麗人参以外にはあまりないのではないでしょうか。輸出向け産業を興し、安い労働力で価格競争力を強め、外貨を稼ぐことを検討していくことになるのでしょうか。

制度として、地方自治制度の導入も必要だと感じました。共和国の下に、道と3つの特別市があり、道の下に郡と市、郡の下に里がある統治機構があるということです。中央集権ですべてやってしまう体制も一つの手法かも知れませんが、地域の多様性にあわせた国造りを行う観点からは、道なり郡、里に権限と財源をある程度委ね、弾力的な運営を図る時代もそう遠くない将来において到来するだろうとおもわれます。

金正日総書記の「指導」という形で、全国一斉に同じことをやる(例えば熱帯ナマズの養殖、ウサギの繁殖・・・)ということも、失敗したらそのダメージが全国規模に広がるおそれがあります。現にこれまでの中央指導の農業政策は結果として失敗が目立っているように見受けられます。

そういう観点からも日本の地方自治の経験も、よい面悪い面とも朝鮮半島には参考になるのではないかと感じました。

(相互理解の促進)
平壌市河東郡大樫山の壇君陵ではありませんが、古朝鮮以来朝鮮半島の歴史の古さには敬意を表すべきものがあります。1993年に5011年前の遺骨を発見した(金日成主席の指示で掘ったら出てきた)という話にはいささか眉唾ものを感じますが、歴史の古さは事実です。白達(ペタール)民族から古朝鮮の始祖が始まったという説明だが、その歴史の支流が日本国の始祖につながると朝鮮半島の人は考えているし、恐らくそういう面もあるとおもわれます。

日本の皇室の神話と新羅の神話には共通点が多いという話も伺いました。また、「奈良」の都の「ナラ」という言葉は朝鮮語では「国」という意味です。朝鮮半島からの渡来民族が、長い日本の古代史の過程で、祖先を同じくする民族の「国」を造り上げ、その象徴として「ナラ」と名付けたのだ、と解説されると、妙に説得されてしまいます。また、日本語の「アイウエオ」は朝鮮語では、「アイ=子ども」、「ウエオ=何故泣くの?」という意味であり、「ワイウエヲ、ン」も「ワイ=何故」、「ウエヲ=泣くの?」、「ン=確認の音」という意味であり、「子どもや、何故泣くの」と、子どもをあやす朝鮮語の言葉が日本語の母音の順として採用されているという見方も伺いました。これも朝鮮総連茨城県本部副委員長から聞いた話です。

私もNHKラジオ講座で韓国朝鮮語の勉強をしていますが、語順は日本語と全く同じ、言葉も一部漢語は共通であり、言葉が昔は共通であったと説明されるとしたら違和感がありません。日本語の方言の中には朝鮮語の語尾と同じものがあるのではないかとさえ思えます。

高松塚古墳の壁画などは余りにも朝鮮半島の古墳の壁画と類似し、当時の貴族(の一部)が朝鮮半島からの渡来人であったであろうことは想像に難くない。平将門の時代、亡命百済の王子が利根川沿岸の地方幹部に任命されていた歴史的事実を見るとき、当時は朝鮮半島と日本は今よりももっと親近感が強かったのでしょう。

このような日朝関係の歴史を振り返り、また20世紀の歴史の事実を正面から見つめ、より建設的な関係を日本と朝鮮半島の間で構築していくことが必要だと感じました。

(千波湖の柳のいわれ)
私の当時の勤務地の水戸市に千波湖という池があります。その畔に沿って柳の木が多数風にたなびいています。水戸在住当時、毎朝、千波湖を散策していて偶然知りましたが、その柳は、1960年4月に、水戸から共和国に、戦時中強制連行された朝鮮人が新潟港発の船で帰国することを記念して植えられたものなのです。その前の年の暮れにはじめて帰国が始まり、1960年4月に水戸地域の朝鮮人も帰国の第1船が出たということです。記念碑の石は日立鉱山の脇を流れる宮田川の石が使われています。日立鉱山で銅を採掘するため多くの朝鮮人が徴用されたのです。柳は平壌を代表する樹木である。その昔、平壌はその昔、柳京と呼ばれた都市で、今も大同江、普通江の周りには柳がたくさん植えられています。

以外に身近なところに、両国の関係の悲劇の歴史を示す証拠が残されていることに改めて感嘆するとともに、多くの人がそういう歴史の断面を知らないで過ごしていることに時代の移り変わり、歴史の風化を感じたところです。

これからの若い世代の日本人には、必要な知識を得た上で、偏見のない自由な感覚でお互いに交流を進め、20世紀の前世代の残したマイナスの歴史的遺産をプラスの価値として転換し、高めていただきたいと強く期待しています。

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