皇后陛下と「稲むらの火」
有楽町の宝くじ売り場の近くで、地下鉄銀座線の入り口のすぐ脇に人知れず佇むモニュメントがあります。目を凝らしてみると、「不意の地震に不断の用意」という草書体の題字とともに、槍を持った勇者の銅像です。擦れた刻印を読むと、関東大震災から10年経って、全国から寄付を集めモニュメントを建てたと書いてあります。その後の10周年ごとの記念行事は行われたのかどうか分かりませんが、一昨年は関東大震災80周年でした。
この地震は、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源として発生したマグニチュード7.9の巨大地震で、関東地域全域と静岡・山梨両県(1府9県)に甚大な災害をもたらした。死者・行方不明者は10万人を超え(14万2000人との推計も)、建物被害は、消失家屋44.7万戸、全半壊25.4万戸を数え、被害総額は当時のGDPの4割を超える55億円から65億円にのぼったとされます。
関東大震災の死者のうち87%は火災で亡くなったとされています。これは、人口密集地の下町を中心に当時の東京市の約半分を焼き尽くす大火災が発生したことによるものです。地震の発生した9月1日は暦の上で二百十日に当たり、台風シーズンを迎える時期でした。発災時刻は昼時で、昼食準備で火をよく使う時刻でした。ちょうど関東地方は台風の余波で風が強く、そのことが火災を大きく広げた原因でした。
302年前の1703年には、関東大震災以上にマグニチュードの大きい元禄地震が起きていますが、発災時刻が午前2時頃ということもあり、地震直後の火災はほとんど無く、死者の数は400人以上程度とされています。
このように、災害は、発災当時の条件によって、その被害状況が大きく異なるものであることがよく分かります。そしてこのことは、防災対策が「減災」に寄与する可能性を示すものでもあります。
関東大震災80周年を契機に、各方面で改めて、来るべき大災害に備える対応が行われました。政府では、日本の首都が集中している首都の防災対策は国全体として戦略的に対応する必要があるということから、中央防災会議に「首都直下地震対策専門調査会」を設置し、防災対策に備えることとするとともに、政府における総合防災訓練の中で南関東直下の地震に備える大規模で実践的な訓練を9月1日の防災の日に行っています。
学会も負けてはいません。全国の科学者と歴史学者が、国立歴史民俗博物館を舞台に、2年間の学際的共同研究の成果による研究型企画展示を行いましたす。その他にも各地で大小の記念事業が行われました。
関東大震災は、様々な教訓を現代に遺しています。平成7年の阪神・淡路大震災の際に、ボランティアが活動し、ボランティア元年と言われ始めたことは我々の記憶に新しいところです。政府でもその後、1月17日の前後をボランティア週間として、ボランティア活動を慫慂する行事を行うに至っています。法律も改正し、ボランティアの活動環境を整備することを国・地方公共団体に責務として課すに至っていますが、関東大震災に詳しい鈴木淳東大文学部助教授によると、関東大震災時にも、ボランティア活動が熱心に行われたとのことです。この大震災直後、全国から、青年団という形で有志が東京に駆けつけ、被災者救護などに尽力したのだそうです。東京帝国大学の学生は、上野の山に避難した多数の被災者支援のために、学生服を着て仮設便所の穴掘りなどに携わり、それを見た周囲の人も、「帝大生が穴掘りをしているのであるから我々も参加せざるべからず」と、大いにボランティア活動が盛り上がったとのことです。
この時期には、東京帝国大学や各省庁を始め各事業所ごとに消防隊があり、周辺の火災にも出動している事情もあったようです。「農商務省消防隊が火災鎮圧に出動」などという新聞記事が当時あったという話も伺いました。それでも、鈴木助教授によると、この時期は、東京においては国家公務員としての常備消防を強化していく中で、従来の町火消しの流れを組む消防組の機材整備、人員確保に力が入らず、「水道が断水する中で、水道消火栓直結用のホースと筒先しか持たなかった消防組にとって致命的な事態」となったとのことです。そういう中で、通常の消防力では対処不可能な大災害が起こり、結局は地域の防災力の力量が試される事態となり、多大の被害を出す結果となったようです。
この大震災の中で、周囲をすべて焼かれながら必死の防火活動の結果かろうじて消失を免れて焼け残った地域がありました。それは浅草伝法院観音堂と神田和泉町・平河町の2カ所であり、浅草の防御は、消防署に加え、消防組員の指導の下、周囲の民家の破壊に加え、住民を2列に並べて池の水をバケツで送らせ火を防ぎ、神田和泉町・平河町は、全く消防隊の援助を得ずに、住民の破壊消防やバケツ類の手送りによる注水、民間会社にあったガソリンポンプによる下水水利を得ての放水、により類火を免れたのだそうです。
この大災害の歴史から見ても分かるように、大災害時には、日本全国から、「奉仕の精神」に満ちた人々が駆けつけるものである、ということと、大災害時における住民組織の防災力が如何に重要なものか、ということは、時代を問わず、真理のようです。
さて、今日的な視点で翻って、こうした教訓を如何に汲み取るべきなのでしょうか。消防庁では、大災害時に備えた常備消防の対応力、広域応援の制度の充実という観点で、実質55年ぶりの消防組織法の改正を行い、緊急消防援助隊の法定化、その出動に対する消防庁長官の指示権の創設、指示に基づいて必要となった経費の国庫負担などの制度を導入し、常備消防の体制強化を図っています。その一方で、大規模災害になればなるほど、地域の自主的な防災力が重要になってくるという観点から、自主防災組織の充実、災害ボランティアの活動環境整備などに力を注いでおります。
地域防災に貢献できる潜在能力のある多くの人々の自助努力、助け合いの気持ちというものを、如何に育み育てていくか、気持ちはあってもどうしたらいいか分からない、災害対応のスキルがない、情報がない、訓練を受けたくても場がない、などの課題は、行政サイドにおいて体系的に整理されるべき課題であります。
阪神・淡路大震災から10年を数え、あの時の災害の記憶が薄れつつあるという話を聞く機会が多くなっています。自然災害、事故災害・人的災害を問わず、巨大災害は、一定の確率で必ず生じるものです。歴史上、日本は繰り返し繰り返し大災害に見舞われる宿命にあります。関東大震災時には天譴論争が世間を賑わせました。日本人には災害に関して諦めの意識が古来あり、人間の咎を天が罰したという所謂天譴説の是非の議論です。これに対して、菊池寛は「地震でなくなったのはブルジョアよりもプロレタリアートが多いので、天譴論はおかしい」、芥川龍之介も、「天譴論が正しいのであれば、渋沢栄一氏などは先ず先に罰せられなければおかしい」などと述べたようです。
今は、天譴論というようなものは影を潜めていますが、それでも、防災にどこまでエネルギーを注ぐべきかという議論は絶えません。防災論は常に、金をかけて空振りでもよしとするか、あるいは、準備しないで大きな被害に遭うか、のせめぎ合いの様相が見え隠れします。
消防防災の分野に携わるものにとっては、こういうせめぎ合いの中で、ねばり強く、国民の皆様に、歴史から学ぶ教訓をもとに、自らの意識次第で、自分を、家族を、そして地域社会を守れるのであると、認識して頂くためにたゆまぬ努力が必要だということは事実です。防災行政は息の長さも重要なのです。
平成11年10月20日の皇后陛下のお誕生日に際して「この一年間を振り返って,印象に残っていることは」との宮内記者会の質問に対するご回答の中で、皇后陛下は、「今年も天災,人災による幾つかの悲しい出来事がありましたが,8月に,昨年復興を宣言した奥尻島を訪れ,同時に北檜山,瀬棚等を訪ねて,復興の様を見聞することのできたことは嬉しいことでした。最近,災害の中でも,集中豪雨が,その集中度,雨量共にひときわ激しいものとなり,犠牲者の出ていることが心配です。子供のころ教科書に,確か「稲むらの火」と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり,その後長く記憶に残ったことでしたが,津波であれ,洪水であれ,平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや,対処の可能性が,学校教育の中で,具体的に教えられた一つの例として思い出されます」とおっしゃっておられました。
災害対応の本質を柔和なお言葉の中で突いた至言のように受け止められるお言葉です。学校教育に防災の問題をきちんと位置づけていくことは、防災を単に個々人のレベルの問題として扱うのではなく、更にレベルを上げ、地方公共団体、国、更には「民族の遺伝子」としてシステムとして組み込んでいけるのだと感じた次第です。我々の使命の一つには、「現代の稲むらの火」を探すこともあるのかも知れません。
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