インド洋大津波と日本の災害伝承
スマトラ沖の地震では、インドでも多数の津波による犠牲者を出していますが、インド南部タミルナド州チェンナイの同様な漁村で、多くの人が亡くなったところと犠牲者がなかったところがの明暗が分かれたことが報道されています(朝日12/31)。
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海岸沿いに南北に数キロ離れて並ぶスリニワーサプラムとバサンナガールはそれぞれ人口約千人と八百人の似たような漁業者集落。しかしスリニワーサプラムでは百人余りの死者行方不明者を出し、バサンナガールに犠牲者はなかった。
12月26日午前8時20分頃、バサンナガールでは濱にいた漁師が海面が異常に高くなっているのに気づき、「逃げ
ろ逃げろ」と各戸に叫んで廻った。人々はまっしぐらに陸の方へ数百メートル走った。
「地震があったのは知っていたが、地震と波の関係を知っているものはなかった。とにかく海がおかしいと気づいたものが騒ぎ、子供も年寄りも駆り立てて逃げたから助かった」とラマチャンドランさん(48)はいう。
スリニワーサプラムでも浜の漁師は水面上昇に気づいて「水が来る」と叫んだ。それを聞いてすぐに走り出したスンダラジャンさん(42)の一家は4人全員無事だったが、隣家の家族はあわてて家の中に飛び込んで戸を閉めた。家に逃げ込んだ人の多くが死亡した。怖くなって家の中の方が安心だと考えたか、家財を出来るだけ持って逃げようとしたかは不明だ。
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ところで、同じような話が日本にもあります。今から150年前(1854)の安政南海地震の際の津波被害を記した二つの対照的な石碑文の中味に関することです。石碑から忍ぶ防災史です。
<大阪市大正橋の石碑文>
・安政南海地震では、地震を感じて家の一部が損壊し、人々は家の下敷きになるのを恐れて、堀に浮かぶ船に乗って難を逃れようとした。地震の2時間後、津波が襲ってきて、人が乗った船が流され橋に次々ぶつかっていき、船は転覆し橋は落ちた。地震では人は死ななかったが津波で約350人が死んだ。実は今から147年前の宝永4年(1707)年にも同じような地震があった時人々は争って船に避難してやはり大勢の人が死んだことがあった。我々はこの先祖の言い伝えを生かせなかったのでくやしい思いをしている。そこで、我らの子孫に申し伝える。将来も同じように大きな地震が来るであろうが、その時は決して船で逃げようとするな。この石碑の文字がいつも読めるように、毎年この石碑の文字に墨を入れよ。
<堺市大浜公園の碑文>
・地震の後大きな津波が来た。しかし堺の住民は宝永の地震の時に船に乗って逃げようとして、大勢死んだという言い伝えを知っていたので、今度は船で逃げようとした人はいなかった。堺の人は、死者はおろかけが人も一人も出なかった。
インドのスリニワーサプラムとバサンナガール。バサンナガールの漁民が過去の災害経験に学んだかどうかは分かりませんが、対応に大きな差が出たという点で、大坂と堺の過去の事例になぞらえることができるように思われます。
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