三陸の津波災害経験
スマトラ沖地震では、津波による犠牲者が夥しい数に上っておりますが、津波被害は、実は日本の経験が世界的に有名です。TSUNAMIという言葉もそれが世界の共通語にもなっているのです。
平成15年の11月に陸中海岸の宮古市、田老町を尋ねる機会がありました。
宮古市主催の地震・津波講習会に出席したのです。平成15年は昭和8年の三陸大津波から70周年でもあり、地元としても災害を振り替える機会を設けたい、という問題意識があり、それに因む事業の一環でした。
北村春江前芦屋市長と私が講師役で、地域の方々と意見交換会も行えました。明治29年の大津波、昭和8年の大津波で、万人、千人単位の犠牲者を出している地域だけに、意識は高いはずなのですが、それでも災害の伝承が適切に行われていないとの現実があるようです。地域の災害史研究家の山下文男さんは、今こそ自主防災組織の全国運動を展開しなければならないと言っておられました。
田老町は、明治29年の三陸大津波で死者行方不明1859名を数え、生き残った人はわずか36名。昭和8年の三陸大津波でも911名が死亡または行方不明、という甚大な被害を出しています。
それでもなお海辺から離れがたく、津波防波堤を築いて備えています。しかしこれで万全かというと、そうでもありません。明治の大津波クラスのものが来ると、堤防は越波を免れません。地元消防団が、津波防波堤の門の開閉を担当し、非常な責任感を持って訓練をしております。その一方で、堤防の「海側」に家を建てている人もいるなど問題もあります。
田老町では、田畑ヨシさんという78歳になる方のお話も伺いました。昭和8年の津波を経験した方です。津波で母親を失ったとのこと、当時の思い出を紙芝居にして子供たちに教えているのです。本人自身が、明治の津波を経験したお爺さんに、津波が来るときの対応を随分と教え込まれていたことが、助かった理由であり、災害を語り継ぐことの重要性を強く感じたことから、紙芝居での伝承を行っているのだそうです。
芦屋の前市長の北村春江さんとは、シンポジウムでご一緒するのは2度目でした。宮古市の熊坂義裕市長は、本職は開業医で、介護保険の運用や自治体の仕事の仕方を大きく変えようと一生懸命やっている開明的な市長です。以前一日分権委員会で盛岡に伺ったときにもご一緒しました。市長になって収入が7分の1に激減したそうです。奥さんも最近近くの滝沢村の助役になったという夫婦そろって「前向きな」人です。
田老町の野中良一町長は役場のたたき上げの苦労人で、お人柄がよい方です。帰りは、奥さんが漬けたという地元で朝上がったばかりの鮭の卵(イクラ)の頂きました。
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