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December 30, 2004

「合衆国戦略爆撃調査団」広島報告

たまたま国会図書館に収蔵されている、「合衆国戦略爆撃調査団」の民間防衛報告の広島現地報告を目にする機会がありました。私自身、広島県庁に勤務経験があることもあり、興味を持ったこともありましたが、これは、1945年10月10日から10月21日まで行われた広島市街における民間防衛現地調査班の報告です。

原子爆弾攻撃以前及び攻撃時に於ける当時の日本の民間防衛組織とその運営の能力調査です。民間防衛の職員の多数が死亡し、多くの装備が破壊され、ほとんど全ての記録が消失している中での調査であり、内容の精度に関しては物足りないものがありますが、今日的な視点でこれからの国民保護制度の検討を行うに当たり、当時の日本の民間防衛の実態を知っていくことは少なくとも議論の前提になるはずであり、その意味では参考になるものでもあります。

そこで述べられている内容は、原子爆弾を投下した側の国の報告であり、民間防衛機能が役立たないほどの無差別大量殺戮を行ったことに対する贖罪の意思が読みとれないなどの問題点や、多少のバイアスのかかった視点が随所に見られるなどの問題はあるにせよ、戦時下の日本の大都市における民間防衛の実態を知る上で貴重な資料であると考えられます。以下その概略を紹介したいと思います。

                                        
合衆国戦略爆撃調査団民間防衛報告No.1 (広島現地報告)
1 8/6の空襲警報
午前7時20分に空襲警報が発令されたが、上空に3機が襲来しただけであったので、午前7時40分頃には警報は解除された。少数機に対しては空襲警報は発令しないという方針があった。それで人々は日常の業務や仕事に就いた。爆発時には仕事に従事しており、殆ど誰一人として防空壕に入っていなかった。原子爆弾の爆発時に異なった条件下にあったならば死者数と破壊の程度がそれほど高くなかったという可能性はある。

2 民間防衛対策
広島地区においては人々は戦争当初から空襲はあり得ると考えていたと推測できる。空襲から市民を守る必要性は自覚していたが、一部住民の無関心な態度のために準備が行われなかったことは明らかである。しかし、1940年のはじめには関心は高まり、従前よりは真剣になった。米軍機による主要都市への爆撃が始まると、一定の防護対策が広島でも当局によってとられた。防火帯は既設の道路を広げて造られ、重要建物や橋の周辺は建物が取り払われた。5カ所に3万坪から6万坪の広さの防火帯、避難場所が造成された。川舟は確保され、いかだが作られ、避難時に使うために川岸に係留された。救命帯が配給された。防空壕は着実に改良された。消火の技術は数種の爆弾に対処するために調整された。

3 民間防衛組織
各県知事は各県の民間防衛に責任を持っていたが、県警察部の長官に多くの権限を委任していた。県の他の幹部である行政部長、第1経済部長、第2経済部長、土木部長はそれぞれ固有の分野に関する民間防衛を行う義務を負っていた。例えば、第1経済部長は食糧の配給に責任を負っていた。
県の民間防衛部門は警察局の内に設置された。そして2つの市消防局と28の警察官駐在所がこの管轄下におかれた。民間防衛法案は内務省によって作られた。県の条例はこの部門によって公布された。
警防団は、広島市警察署長によって彼の任命したリーダーを通じて監督されていた。これらの警防団長たちは広島県民間防衛協会と呼ばれる団体に組織されていた。警防団の中には、防毒、監視、海事、配給、救護、医療などの部門や防火組があった。
民間防衛の手段が実行された基礎単位は隣組であった。
県の消防学校が開設されていた。消防局職員や警防団から選ばれた人々がここで訓練を受けた。防空指導員は学校における指導を行うために派遣された。
 
4 警防団
広島市の警察は宇品、広島東、広島西の3地区に分かれていたが、警防団もそれぞれの地区警察の下に3つの警防団があった。地区警察署長は基礎単位のリーダーを任命した。一般的にはコミュニティーの中で能力もあり重きをなす男性が任命された。
自発的な職員は市区内の住民から集められた。警報が出ると基礎単位の約3分の1が勤務に就いた。残りのものは空襲時に勤務に就くことになっていた。
少数の抜擢された人々は県の防空学校で一日の訓練を受けた。警察局の職員が防空問題について講義を行った。

5 隣組 
民間防衛体系を作り上げた日本の官僚がドイツの資料を手にしていたかどうかは分からないが、隣組のシステムはドイツの自衛計画によく似ている。両者の計画では、防空の義務と即座の行動は隣人達自身によって行われた。
隣近所9,10ないし20家族は隣組を作るためにグループを作った。全員の賛同によってリーダーが選ばれた。リーダーは隣組員達に最新の家族防護の技術を教える責任があった。彼自身は新聞や、殊に防空必携などから情報を得ていた。
隣組は、消火、救護、警防団が駆けつけて任務を引き受けるまでの初期救援など、いかなる緊急事態にも取り組んだが、警防団は隣組の援助を受けた。ただし、隣組の主要な機能は食糧配給であった。
どの家庭にも救急箱が備えられており、庭には防火水槽があった。様々な補助的消火器は隣組の人たちが金を出し合って備え付けていた。井戸にはポンプを備えていた。

6 空襲警報
空襲警報は市の全域にわたって重要地点に設置されたサイレンによって知らされた。マスタースイッチによって同時にサイレンを作動させるシステムにはなっていなかった。各サイレンポストは、電話によって警報を発するように命じられていた。原爆が投下された時点で、より能率的な警報体系が設置されつつあった証拠が発見されている。

7 消防機構
(組織及び職員) 
米軍占領時まで、広島市消防局は警察署長の下に広島西消防署と広島東消防署の2つに区分されていた。米軍は警察署長を解雇し、市はその後、広島西消防署と広島東消防署の2つの分離された消防署を有している。1943年10月に、市の消防設備を増強する必要性が認識され、消防局は全ての消防車を警防団の所有の下で統制しようと考えた。命令系統に関して、市消防局は、消火活動の指揮においてはし民間防衛部にとって代わった。
原爆投下以前の広島西消防署は6分署260人、ポンプ車27台、はしご車1台、広島東消防署は6分署180人、ポンプ車18台。原爆投下後の調査時点では、西署で1分署117人、ポンプ車5台、東署で2分署85人、ポンプ車5台。

(補助職員)
戦争法令に従って、消防局を強化するために警防団員に対する計画が立てられ補助職員確保が図られた。西署では合計2400人のボランティア職員を受け入れ、東署では1200人が割り当てられるはずであった。しかしながら両署が使えた最大人数は、東署で約200人、西署で約400人であった。これは、コミュニティ-組織に対する市民の関心が欠けていることを示すものだ。

(警防団員の訓練)
警防団員の訓練は警察官の指揮下で消防局学校で行われた。訓練コースは広島県庁が作り、消火方法、ガス及び
防毒、防空法令、初期防護及び蘇生法、消防局規則、機器の操作及び整備であった。訓練期間は1ヶ月で、この間
35円が警防団員に支払われた。

(工場消防組織)
大工場には自身の消防組織があり、消防車も備えていた。
  
8 救急医療体制
(活用可能な要員)
広島市の救急医療計画と組織は広島県公衆衛生局を通じて行われた。広島市と近隣市の全医師は県庁に名前を登録し、要請があれば広島市に来るように要求された。全看護婦と助産婦も登録された。緊急事態の場合に、警察はこれらの医師と看護婦に通告する。必要な場合には、近隣地区や市は小学校を臨時の病院にするような計画があった。

(訓練された要員)
広島市にはおよそ288人の医師と、1200人から1200人の看護婦がいた。原子爆弾で53人の医師が死亡した。この調査の時点で約60人の医師が市内に留まっていた。他は余所の市や地方に移っていった。

(訓練) 
医学的訓練や緊急時初期救護は非常に貧弱であった。週に一度、医師、看護婦、消防士が隣組長に医学的処置の講義を行った。隣組長は隣組員にその話を伝えた。やけどの初期救護、止血のための圧点、止血法、身体各部の包帯法などがその内容。ショックに対する処置の教育は無かった。麻酔は薬品が欠乏していたため初期救護処置では使われなかった。
初期救護法はいくつかの学校、主として女学校で教えられた。初期救護についてはある程度印刷物によって教え込んだが、ラジオは使われなかった。

(病院の収容能力)
原子爆弾以前の広島市の病院の収容能力は1000ベッド近くあった。陸軍は5病院を持ち5000ベッドの収容能力があった。近くには海軍病院はなかった。原子爆弾以前に広島市内には緊急時の病院ベッドの準備はなかった。また初期救護所もなかった。

(救急病院及び医薬品供給) 
広島市全体でも救急病院は10を数えるに過ぎなかった。非常の場合にはトラック、バス、荷車、市街電車などを使う
計画であった。各隣組は少なくとも一台の担架を持つことを要求されていた。プラズマは利用できなかった。民間用のモルヒネや他の麻酔薬は欠乏していたが、ワクチンは利用できた。少数のサルファ剤、殊にネオプロントジルやサルファピリジンはあった。やけどの処置のための亜鉛華、油脂類、その他の薬品を十分に市民は持っていた。原爆投下以前には、包帯、綿や消毒剤は利用できたが非常に不足しているものであった。大半の医薬品は病院に蓄えられ
ていたが、市外の5、6ヶ所の壕の中や建物の中にも蓄えられていた。

(公衆衛生研究)
広島市或いは周辺の市では最近どのような病気の流行もなかったが、過去2,3年の間には結核とかその他の伝染
疾患の顕著な増加が見られた。全市民は毎年、ジフテリア、天然痘、コレラ、チフス、腸チフスの予防接種を受け
なければならなかった。

(コメント)
緊急事態の医療計画はどのような型の緊急事態に対しても全体として不適切であった。医療計画は、明らかに市
の通信、輸送施設に依存するところが大である。原子爆弾によって、全通信、輸送施設は破壊された。それ故に医師を市内に派遣して行う医療計画は全てうまく行かなかった。

9 防空壕
各家族はそれぞれの防空壕を持つように決められていたが、しかしその様にはなっていなかった。隣組は即座に家
族防空壕に入ることができない子供や虚弱者が利用するために大きなものを作った。人々は新聞、雑誌を通してて
防空壕の作り方を教えられたが、しかし、道具や材料が欠乏していたので指導通りに作ることはできなかった。それ故に、もとの計画とは違ったものが作られた。しばしば防空壕は非常に変形されたので実際には落とし穴になることもあった。

10 疎開
防火目的のために建物を取り払われた広島市内の地区では、不可欠な働き手以外の住民は市外での居住を強制された。一般の疎開は命令されることはなく、示唆されただけであった。その結果疎開は大衆の冷淡な態度に比例した。

11 情報伝達及び大衆の訓練
新聞は働く人々の間に民間防衛対策を広めるのに使われた。例えば、防空壕は新聞に書かれた設計図と仕様書によって作られることになっていた。内務省発行の時局必携は、防空対策において他人を教育する責任を負うリーダーに活用された。防空総本部において作成された指導や命令、県からの指導や命令は、命令系統を通じていくつかの機関に流された。

12 財政
民間防衛は一般的には地方で資金調達された。すなわち、市町村そして個人の寄付金によって賄われた。ごくわずかの金が帝国政府及び県から来たに過ぎなかった。広島県は約7万円を東京から受け取り、そのうちわずか4千円を広島市に配分したに過ぎなかった。この金の大半は警防団が使った。市消防署の費用の半分は県の基金によって賄われた。他の半分は国庫補助金及び個人の寄付に依った。

13 コメント
県警察部長は、「原子爆弾爆発時に人々が遮蔽物の下にいたならば、火災の広がりをよりうまくくい止めることができたであろう、何故ならば、消防官や市民がより多く生き残っており、活動できたはずだからである」、と言っている。隣組のリーダーは、「通常の焼夷弾空襲ならば、人力と利用可能な防火用具で処理できた」と言っていたが、この者は裕福な地域におり、それ故に立て込んでもおらず土地にも余裕があったということを指摘しておかなければならない。この者の防火器具は平均よりも幾分よいものであった。
インタビューをした殆どの人々は、民間防衛措置は原子爆弾の破壊力に対しては全く効果が無かったことを認めた。
 

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