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December 19, 2004

「稲むらの火」の現在

昨年、和歌山の御坊市で行われた南海地震に備える自主防災組織の活動支援シンポジウムに参加して参りました。南紀白浜から、串本、潮岬、太地町、新宮市、熊野古道、田辺、御坊と回りました。

南海地震に備える臨海部の市町村の自主防災組織の動きを取材し、過去の津波の痕跡、履歴を確認する旅行でした。1946年の昭和南海地震でも大きな被害が出ましたが、1854年の安政南海地震では更に大きな津波が起きました。1707年の宝永南海地震ではもっと大きな津波がありました。

田辺市ではその波が何処まで押し寄せたかが、目印として残っておりました。それを記録して参りました。

しかし、人間とは如何に浅はかなものなのでしょう、津波で被害を受けたその土地に、びっしりと家が建ち並び、危うい姿を大自然の前にさらしているのです。地元の人も余り意識しないで、地域開発をしてきてしまっています。今となって、災害防止の面から意識を高めつつありますが、地元の自治体の動きはまだまだ鈍いように思えました。

今年は、安政南海地震150周年だったのです。

広川町、湯浅町にも伺い、「稲村の火」の古蹟を見て参りました。広八幡神社に通じる道の回りの稲村に火を付け、地元の人に津波の危機を知らせた浜口梧陵のことを地元の方から伺って参りました。八幡神社の宮司の佐々木さんの話も伺いましたが、安政南海地震のおりに、村人が、この八幡神社に避難したのだそうです。その高台に梧綾の碑が建っていました。勝海舟が梧綾の碑の銘文を書いていました。梧綾は実業家としても成功し、勝海舟の支援者でもあったようなのです。

しかし、その梧綾の警鐘は、今の広川町、湯浅町に引き継がれているようには思えませんでした。共同の防災訓練を行っていないばかりか、浸水予想地図も町の境で切断しているのです。津波は町境を意識しません。湯浅町は、
「自主防災組織はこれから作る」のだそうです。

御坊市のシンポジウムでは、木村和歌山県知事、二階俊博衆議院議員ともご一緒しました。京都大学の河田教授のインパクトのある講演を交えて、900人の聴衆も盛り上がりました。

「稲むらの火」に関しては、水野欽司氏が防災教育の名作「稲むらの火」の由来を記されています。以下のリンクから見ることが出来ます。
http://www.inamuranohi.jp/
 

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