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November 03, 2004

義務教育財源論を巡る歴史的議論の回顧

中央集権体制を地方分権に変えようとする改革の一環が「三位一体」改革です。世間では、その改革は、国と地方の権限争いに過ぎない単純な改革のように考えている人が多いようですが、これは結果として、我が国の行政の仕組みのみならず、人々の生活パターンを大きく変える一大改革となるものです。

「三位一体」改革は、端的に言えば、国の補助金を4兆円廃止し、3兆円規模の国税を地方税に移譲しようとする改革、国の補助金を廃止することで国の支出を減らし、それに見合った財源を地方に移譲するという改革です。国はその分の税収を失いますが、税収に見合う以上の歳出カットが見込まれるため収支は少しプラスになります。

一方で、地方自治体は国からの制約を免れ、地域社会で必要とされる行政需要に増えた税収を充てることが出来るようになります。税収が不十分な地域では地方交付税により減少した国庫補助金と税収増の差額分が埋められる、ということが想定されています。

これは、単に、国と地方間の金のやりとりの問題ではなく、中央政府からの財政面の呪縛を出来るだけ少なくできれば、地方自治体の責任は増し、住民との間で受益と負担の観点に立った真に効果的な仕事が出来る度合いが増していくとの理念に基づく考え方です。

国から地方に交付される国庫補助負担金は20兆4千億円ある中で、社会保障関係補助負担金や、その財源が主として建設国債である公共事業関係補助負担金については、慎重論が強い中で、実は3~4兆円規模の補助金を整理して地方税源に振り替えようとすることは非常に難しい作業なのです。補助金を失うことになる省庁は、組織の縮小に繋がるものと受け止め危機感を持って受け止め、国会議員の皆様も、補助金を通じた選挙区とのつながりが無くなることを懸念されています。

このような中で、義務教育に携わる教職員の人件費の半分を国庫負担している仕組みについて、これを廃止し、地方税源に振り代える議論があります。この額が2兆5千億円。この問題を巡っては、賛否両論が出ています。実際に義務教育教職員の給与を支弁している都道府県知事の中でも議論があり、8月19日の全国知事会の新潟会議では議論が分かれ、多数決をとって賛否を決めました。40対7で、これを一部廃止し、その分の税源移譲を国に求めていくことに決まりました。

「自治研究」(第一法規)2004年10月号で、義務教育費の国庫負担制度についての歴史的議論の経緯を、私が詳しく論じました。割と反響があり、学者や役所のOBの方々からも手紙をもらったりしました。『半世紀を経て繰り返される義務教育財源論』というのがそのタイトルですが、以下、要約版をつくってみました。義務教育と財源論に拘わる様々な論点はほぼカバーできていると思っております。

最後に問われるのは、地方自治体が信用できるのか、という点に集約されます。国の役所は信用できるが自治体は信用できない、という議論の真偽が問われていると思います。これは、恐らく、他の補助金にも通じる論点です。私には、中央省庁がそう考えるのはやむを得ないとして、自治体の関係者でそれを言っている人がいるのは、自己矛盾のように思えて仕方がありません。勿論補助金の関係する分野の問題や程度問題はありますが。

;;;;;;;<論文要旨>;;;;;;;;

昭和24年のシャウプ勧告に基づき、昭和25年に地方交付税制度の前身である地方財政平衡交付金制度が創設された際に、シャウプ勧告に従って義務教育費の国庫負担制度は地方財政平衡交付金制度に吸収されている。その後地方財政の窮迫の中で、大議論の末国庫負担制度が復活した経緯がある。

今回の三位一体論議は、国税から地方税源への移譲という形で特別の財源を確保するというこれまでにない局面になっている。その中で、義務教育費の国庫負担制度を一般財源化するべきかどうかということが問われている。今回、これまでの歴史上の議論も踏まえ今日的な視点でこの問題の見方を探ってみた。

【シャウプ勧告による一般財源化その後の復活】
昭和24年のシャウプ勧告は補助金に関する提言を行った。その中で、一部補助金の総額は削減されるべきであるとし、教育、自治体警察、その他の統治作用に対する国家の財政的援助は、平衡交付金によって与えられるべきであると提言している。義務教育費国庫負担金は、このシャウプ勧告を受けて平衡交付金に全て組み込まれることとなった。しかし、この時代は地方財政が窮乏し、都道府県知事に義務教育費負担の重圧を痛感させるものであったため、昭和28年から義務教育費半額国庫負担制度が復活している。

【今日と酷似する50年前の議論】
実は、義務教育費国庫負担を巡る当時の文部省と当時の地方財政委員会(現在は総務省にその機能が引き継がれている)の当局者の主張を見てみると、今日と基本的に同様の議論が行われていることに驚かされる。昭和27年発行の法律雑誌「ジュリスト」に、文部省初等中等教育局庶務課長内藤譽三郎氏と地方財政委員会事務局長荻田保氏の論争が、それぞれ、「義務教育費国庫負担制度は必要」という論文と「義務教育費国庫負担法案反対覚書」という論文の対比という形で掲載されている。
 
内藤論文の要旨は次の通りである。
・義務教育は憲法上の義務なる故に単に地方団体の事務として放任しておくことは許されず、国家が明確に責任を負うことが要請される。
・不安定な平衡交付金の中で義務教育費が賄われていることは義務教育費にとって不幸であるのみならず地方財政にとっても迷惑である。
・国の重要な事務については、財政上完全に地方自治に任せておく弊害は国が財政上の責任を明らかにすることによって生ずる弊害よりも大きい。
・今日のような膨大な平衡交付金に頼らないような健全な地方税体系と各地方団体に一定の起債能力を認める方向に(地方財政委員会は)積極的に努力しなければならない。
・義務教育費が弾力性に乏しい経費であるだけに、総合運営の妙を発揮されれば、流用により教員数を減少するか給与を引き下げて無資格教員を多く採用するなど、必ず後で困ることは明らか。

以上に対する荻田覚書の要旨は次の通りである。
・普通教育についての国の義務は、中央政府だけの義務ではなく、地方団体を包含した意味での国家の責任である。義務教育については一切のことが文部省の責任だと考えるようなことは誤りである。
・文部省が主張している制度は、現在国庫地方財政を通じて教育費に予定されている額を増加するものではない。現在の総額に特殊なワクを設定するだけの話である。
・義務教育の全国的一定水準の維持とその保障は当然だが、あくまでも教育内容についてであり、財源的保障は間接的なものである。現在は、内容自体に十分な基準ができていない。速やかに法律でそれを定めるべきで、経費のみを対象に論じることは本末転倒。
・普通教育のようなものは、住民に最も身近な団体で行われることが好ましい。新憲法下の教育改革もその地方分権化に大きな方針があった。勿論、それについて全国水準を維持することは必要であるが、基準を法定し、地方団体の熱意と工夫によってそれが向上するように仕向けるのが教育振興の上からも望ましい。
・地方住民の最も関心を持つのは我が子の教育のことである。従って、地方行政の中で最も優先するのは教育行政であり、地方は教育費について国の基準以上を支出している。
・義務教育を地方団体の事務としておく以上、地方財政総体の充実なくしては、その振興は達せられないということである。

昭和27年の論争を経て復活してから50年以上の歴史を経た義務教育費国庫負担金であるが、その後の国庫負担金対象の増減はあったが、基本的な姿は変わらずに今日に至っている。それが改めて一般財源化の俎上にのぼっているのである。それを推し進める動きの背景は、更なる地方分権の推進、特に地方税源の充実を図るという目的がある。内藤論文がいみじくも指摘している、「健全な地方税体系と各地方団体に一定の起債能力を認める方向に積極的に努力」すべしとした結果が、今回曲がりなりにも実現しようとしているのである。その局面で、義務教育費国庫負担金の一般財源化が再び議論になっていることは、「歴史的予言」として意味深長でもある。

【国庫負担金復活の理由とされた課題の今日的検証】
当時、内藤氏が懸念し、義務教育費国庫負担復活の理由とした課題は、その後の50年間でどのように実現して来たのか、それを検証することが、今日的な視点で、義務教育費国庫負担の在り方を議論する材料になる。議論を整理するために論点を以下のように集約してみた。

【全国的な教育水準の確保に向けた国の責任】
当時の文部省も、現在の文部科学省も、義務教育の水準の確保は国の責任であり、国庫負担制度は国がそのような責任を果たすために不可欠なものであると主張している。これに対して、当時の地方財政委員会は、義務教育の全国的一定水準の維持とその保障は当然だが、それはあくまでも教育内容についてであり、財源的保障は間接的なものであると反論した。その上で、当時は、義務教育の内容自体に十分な基準ができていないことが問題で、速やかに法律でそれを定めるべきで、経費のみを対象に論じることは本末転倒、と断じている。

荻田氏の提案に係る義務教育の標準を法律で定めるという仕組みは、今日では義務教育諸学校の教職員の任免、給与、身分等に関する基本的枠組みが整備されることで実現している。学校教育法、公立義務諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律などがそれである。こうした制度的保障を契機として、公立小学校教員一人当たりが受け持つ児童数が目に見えて減っている。教育内容面での義務教育の全国的一定水準の維持とその保障は法律で行うことが重要なのである。それを国庫負担金で行うことが不可欠なものであるとの主張は、実のところ正確ではないというのが、50年間の歴史の審判なのである。

更に、50年以上も前の地方団体と今日の地方団体の行財政能力の差異を前提に今日的な視点で考えた場合、国と地方が教育行政に関する役割をどう考えたらよいのであろうか。国は、教育の中身や達成すべき水準(例えば、学習指導要領や教科書検定など)に責任を持つべきで、教育水準がどの程度維持、確保されているのかを評価する方法を確立し、これを実施するといったことが求められている一方で、学級編制や教職員、学校施設など教育の目的を達成するための手段に関する事項については、国は法律でその大枠を明らかにし、所要の財源をマクロ的に確実に保障した上で、その具体の態様については最大限地方の自主性に委ねるべきではないかと考えられる。

そのためには、財源保障の手段が、国庫負担金であるか一般財源(地方税及び地方交付税)であるかは、どちらでなくてはならないというものではなく、否むしろ、以上の観点からは、国庫負担金による使途の縛りをなくし、地方が一定の範囲内で人件費の枠を超えて財源の活用を可能なようにし、地方の創意工夫と地域間の競争による教育効果の拡大を促進することが望ましいと思われる。

【確実な財源保障】
昭和27年当時は、国庫負担金により地域間格差を是正する必要が唱えられ、今日ではその裏返しの理屈、すなわち、国庫負担金がなくなると、地方団体の財政力格差が、そのまま教育水準の地域間格差に直結し、特に税源移譲された場合は、税源の偏在のために財源不足となる県では義務教育費を削減せざるを得なくなるという主張が行われている。

言うまでもなく、50年前の日本と今日の日本を比較すると、国力の点からも地域間格差の点からも、地域的な財政力の格差は国による財政調整の仕組みなどにより大きく改善されてきている。地方財政平衡交付金から進化した地方交付税制度は、その財源調整機能と財源保障機能が強化され、今日に至っている。最早昭和27年当時の議論の前提は大きく異なっている。その上で、今回は三位一体議論の中で、補助金削減に見合う税源を国税から地方税に移譲しようというものであり、マクロ的に特別の財源を用意しようとするものである。しかもその税源は、できるだけ地域ごとの偏在の少ない税制でこれを担保し、あわせて、補助金削減に伴う所要額は交付税の基準財政需要額の算定上的確に反映し、税源移譲のメリットが相対的に少ない自治体にも十全な財源保障をすることを想定しているのである。
 

【義務教育費支出の確保】
義務教育費が一般財源化されれば、県によっては必要な教職員が大幅に削減され、教育の機会均等を害することになりかねないという根強い主張がある。文部科学省も、県知事の考え方次第で、取り返しのつかない教育水準の低下につながりかねないと懸念を表明する。

これに対しては、学級編制や教職員数のルールについては標準法により明らかにされており、所要の財源が保障されさえすれば、教職員数が大幅に削減されることは想定しにくい。荻田氏が指摘する「地方住民の最も関心を持つのは我が子の教育のことである。従って、地方行政の中で最も優先するのは教育行政であり、地方は教育費について国の基準以上を支出している」という観察は、今日でも妥当だと思われる。

実例を見てもこのことは検証できる。公立高校には国庫負担制度がなく一般財源により財源が保障されているが、「標準法」と「地方財政計画、地方交付税の算定を通じた財源保障」によりその教育水準は確保されている。更に、同じくシャウプ勧告により一般財源化された歴史を持つ警察職員設置費に関しては、政令定数は全国にわたりその水準は確保されている。

住民自治の観点に立つならば、各地方団体に、全国的な統一基準に基づく地域の教育水準の自己評価やその結果の公表義務を制度化し、住民の判断を促す制度の導入も検討されてよい。

義務教育費支出の確保に関しては、財源による統制以外に様々な仕組みの活用や将来の工夫の余地が大いにあるということである。本来補助金や負担金の廃止とは、首長がどの分野にいくらの資金を充当するのかの監視役を住民のチェックに曝すということである。情報公開制度が定着している中で、意志決定の途中段階から人々の目に曝さすことで、義務教育の水準を引き下げる政策を採用する首長に対しては、住民自治に基づく審判がある。それこそが地方分権議論の理念の具現化であり、民主主義なのである。

【国際比較】
義務教育制度の在り方とその財源の在り方に関して、文部科学省では、多くの先進国で義務教育の教職員給与費全額を国が負担、義務教育費を国が負担する国は学力の水準が高くばらつきが少ない傾向、各国とも学力向上を目指し国家が教育投資を拡充する方向という見方をしている。

しかし、総務省でこれを検証したところによると、文部科学省の見方とは異なり、教育の分権化こそがむしろ世界の主流である。例えば、アメリカ、カナダ、ドイツなどの連邦制国家では、州レベルで権限・財源ともに完全に分権化している。

文部科学省は、連邦制国家の州は日本の中央政府に相当すると考えているようであるが、日本の都道府県に相当すると考えるのが常識だ。また、スウェーデンでは、90年代の一般財源化等の改革により、かえって地方団体の教育支出が充実し、教育水準が向上していると認識されている。イギリスも地方一般財源により義務教育が行われている。固有の政治・社会情勢を背景に、奨励的に補助金を交付しているのみである。フランスでは、教員は国家公務員であり、その給与費は勿論国庫負担であるが、実は、全国で30ある学校区毎の地域間格差が大きく、社会問題になっている。義務教育の水準と財源措置の間に、関連性を見出すのは到底無理である。

【完全な自治事務となった義務教育】
義務教育が国の基本にとって極めて重要なものであることは言うまでもない。しかし、それを賄う財源が、直接の国費である必要があるか否かは、重要な論点ではあるが、必然的な選択肢ではない、というのが、筆者の基本的認識である。そのうえで、教育行政の充実を図るためにも、地方財政全体の充実を的確に行うことが、その振興に不可欠なことである。この認識は、昭和27年当時の議論から50年以上経過した今日でも変わることのない認識なのである。

教育の在り方が、その国の発展を左右する重要な課題であることに議論の余地はない。一方で、この教育を支える国と地方の役割は時代とともに変化するものでもある。教育を核に日本が近代化に邁進していた明治憲法下では教育は国の事務とされていた。それが戦後の民主化の中で、地方の固有事務へと転換されたが、教育分野における国の役割は引き続き重要であった。6-3制の導入やベビーブームに対応する必要もあった。

日本が世界の先進国の仲間入りを果たし、これまで築きあげてきた国民の努力を背景に、教育環境の整備も一定水準に達した現在、今日の時代にふさわしい新しい教育の在り方が求められている。一定の教育水準確保を前提に、地域の特色を生かした多様な教育の取組みが求められている。

こうした時代認識を踏まえ、平成12年施行の分権一括法では、教職員の任免や学級編制基準の設定等の事務を国が地方にその実施を委託する性格の機関委任事務から地方自治体自身が主体的に行う自治事務に転換し、教育の実施が地方の責務であることが、より徹底された。このことは実は理念的に非常に大きな転換なのである。

平成12年の改革理念を具体的政策に移すことが求められている。この際、国は、地方の自治事務である教育行政について、制度の根幹を定める一方で、具体の運用は地方に任せるとの考えに立って、地方団体の自由度を最大限拡大する政策方向こそ重要だと考える。

【国の地方不信論を認めなかった全国の知事の判断】
義務教育費国庫負担金問題を議論していく上で、当事者である都道府県知事の意見が重要であることは言うまでもない。文部科学省は、一般財源化により、地方団体が的確に教育支出を行うのか大きな懸念を表明し、そのことが一般財源化に懸念を表明する教育関係者の琴線に触れる最大の反対理由になっている。まさに教育支出の責任者となる都道府県知事が、財源を付与されてもなお一般財源化に反対することは、地方不信という都道府県知事に向けられた文部科学省の懸念を自ら認めるものであり、自己矛盾である。

8月18日と19日に開催された全国知事会総会では、長時間に亘る議論の末、義務教育費国庫負担の一般財源化に向けた結論を採択したが、大きな地方分権の流れの中で、漸く訪れた税源移譲の具体的議論を前にして、大局的な対応が行われたものと理解している。

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Comments

確かに、現在の三位一体議論は、地方分権論と財政再建論がミックスされています。

また、都道府県毎の教員需給の地域格差が見込まれることも事実だと思います。

更に地域給与の見直しの中で、地方自治体に、公務員の給与水準を柔軟に再編する余地が生まれることも方向性としては蓋然性は高いと思います。

そのような動きを踏まえた上で、なお、義務教育費国庫負担分を地方への税源移譲に振りかえても、地方交付税の財源保障機能が堅持されさえすれば、地域間の教育格差の拡大はあり得ないと考えています。

現時点で、義務教育費経常支出8.7兆円のうち8割近くが地方税と交付税で賄われています。準義務教育となっている公立高校運営費は全額地方一般財源で賄われています。

仮に地方交付税の財源保障機能が損なわれるようなことになれば、現在の義務教育国庫負担制度の下で運営されている仕組みですら破壊されてしまうのです。

そんなことになったら、日本の地方自治は破壊されてしまいます。

義務教育費負担金に相当する地方の自主財源がきちんと確保され、しかも、財政力の豊かな団体に税収が入りすぎないように地方税収の平準化措置、交付税の財源均填化措置が大胆に講じられています。

このような仕組みを前提にすると、御懸念の点は払拭されると思います。

敢えていえば、負担金を国に残しておくことで、今後更に厳しい査定が財政当局から加えられるはずです。国の財政当局は、平成1年以降子供一人あたりにかけている教育費が8割も増えており、これを削らなければならないと中央教育審議会の場で発言しています。

穿った見方をすれば、負担金として残しておくことは、教育費を削られるために残しておくことになりかねないとすら思えて仕方がありません。

負担金制度の中で、実際日本の義務教育が良くなってきたのか悪くなってきたのか、そのような検証こそ文部科学省は行うべきです。

金の問題にばかりかまけて、教育の中身に関する議論を怠ってきたのではないか、と、学齢期の子供を抱える親として思えて仕方がありません。

更に蛇足ですが、閣議決定までも行い、三位一体改革を政府の大方針として実現するとされている中で、事業官庁がその方針に真っ向反対することでこれが実現できないことの問題、つまり政府としての統一性が問われていること、このような問題が今問われているようにも思えます。

Posted by: むーさん | June 05, 2005 at 12:50 AM

 はじめまして。義務教育財源をめぐる論点、興味深く読ませていただきました。三位一体の改革の一環としての義務教育国庫負担金問題をどう考えれば良いのだろうか、と常々思っていたので、記事を読んで、さまざまな示唆を受けることができました。

 不勉強なので、事実認識が違っているかもしれませんが、個人的には、

 1)国家財政の再建という文脈のもとで、地方への権限・財源の委譲が進行しており、そのため、財政強化というよりは、財源の削減、スリム化が基調となって議論が進行している

 2)統計をみる限りでは、今後、教員需給の地域格差が増大することが予想されている

 3)公務員制度の改革のなかで、地方自治体に、公務員の給与水準を柔軟に再編する余地が増大する

 ということを考えると、義務教育費の一般財源化、地方への移譲は、地域間の教育格差を増大させるような気がするのですが、いかがでしょうか。

 ただ、いくつかの記事で触れられていたように、この問題に対する文科省のスタンスには納得できない点があり、また、財源の確保を通じた中央集権的な統制というねらいも見え隠れしているために、手放しで文科省側の主張を受け入れることも危うい気がします。

 なんだかまとまりがないですが、記事をよんで思ったことを書かせていただきました。これからもちょくちょくお邪魔するので、よろしくお願いします。

Posted by: ebony | May 29, 2005 at 08:03 PM

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